心動

 小さな電子音が鳴って、昼休みを告げるチャイムが流れた。


 僕は画面を閉じて、タブレットをそっと脇に置く。午前中の作業はひと段落。今日は、そこまでバタついた仕事もない。


 引き出しからコンビニの袋を取り出し、例によって鮭と昆布のおにぎりを並べる。変わらない組み合わせ。


 ペットボトルのお茶を開け、ひと口。静かな時間。スマホに通知はない。


 ふと思い立ち、足元に置いたカメラバッグに手を伸ばす。業務用の一眼を取り出し、レンズを外して、本体内部にそっとブロアーで空気を吹きかける。


 ひと通り整備を終えると、ついでに自分のカメラをバッグから取り出した。


 ふと、声がした。


「……あ、それ、OLYMPUSのPENですよね?」


 顔を上げると、作業スペースの仕切り越しに、美月がこちらを見ていた。柔らかな笑みを浮かべて、手にした缶コーヒーを揺らしている。


「ああ、うん。」


「私も持ってます。同じシリーズのシルバーに、ベージュのグリップのやつ」


「へえ、そうなんだ。ちょっと意外かも」


「え? 意外ですか?」


「なんとなく、スマホ派かなって思ってた」


「スマホでも撮りますけど、写真好きなんで——ちゃんと撮るときはカメラ使いたいんです」


「写真、いいよね」


 少し間を置いて、僕は言った。


「その瞬間を、切り取って残せるのって、すごいことだと思う。後から見返したときに、景色だけじゃなくて、そのときの空気とか気持ちまで、ふっと蘇ってくる気がして」


「……わかります」


 美月が小さくうなずく。


「昔、地方新聞の写真コンテストで入賞したことがあってね」


「えー!すごい、何を撮ったんですか?」


「カマキリのメスが、交尾を終えてオスを食べるところの写真!」


「え……」


「たまたま撮れたんだよ!あのときは興奮したなぁ……」


「……何部門で入賞したんですか?」


「昆虫部門」


「えー……すごい……」


 美月は微妙な笑みを浮かべながら、缶コーヒー片手に席へと戻っていった。


 時計に目をやると、全体会議の時間が近づいている。


「長谷川さん、僕と課長はこれから会議に行くので、その間にさっきの作業、ここまで進めておいてもらえますか?」


「はい、わかりました」


「無理のない範囲でいいので、わからないことがあったらメモしておいてください」


「ありがとうございます。やってみますね」


 美月に軽くうなずき、タブレットを閉じて立ち上がる。


 ちょうどそのタイミングで、課長が扉の向こうから顔をのぞかせた。


「真木、いいか?」


「はい、今行きます」


 軽く返事をして、僕は課長とともに会議室へと向かった。


 課長と並んで廊下を歩きながら、僕はふと尋ねられる。


「長谷川さん、どうだ?」


「はい、素直で真面目な子だと思います。覚えも早いですし、こちらの話もちゃんと聞いてくれてます」


「そっか、それはよかった」


 課長は腕を組んで、軽くうなずいた。


「そういえば、総務に頼んでたトナー、まだ届いてなくて」


「……ああ、まだ?」


「確認したら、林田さんのところで止まってました。書類は一週間前に出してるんですけど」


「うーん、そうか……林田さんね……」


 課長が曖昧な顔をする。


「会議のあと、僕が総務に寄って確認してきますよ。こういうの、溜めると地味に面倒なんで」


「……いや、いい。僕がやっておくよ」


「でも、課長、午後から外出でしたよね? だったら僕が——」


「だいじょうぶだいじょうぶ。あとで、ちょっと僕から言っておくから」


「……わかりました」


 そう答えると、会議室のドアがすぐそこに見えてきた。


 会議室には、長机とパイプ椅子がずらりと並んでいた。


 席は自由だが、なんとなくの暗黙のルールがある。だいたい前から3列目あたりから座り始め、最後尾まで埋まっていく。そして、空席がなくなると、仕方なく前の方に座ることになる。


 過去に一度だけ、遅刻して飛び込んできた社員が、空いていた最前列——社長の真ん前に座ってしまったことがあった。


 会議中、その社員は社長からの執拗な質問攻めにあい、軽いミスをネチネチと突かれ続けた。その日以来、誰もが余裕を持って会議室に集まるようになった。


 ちなみに、その社長の正面の椅子は、社内で“処刑台”と呼ばれている。


 会議開始の10分前だというのに、すでに座席の半分以上が埋まっていた。


「真木さーん!」


 底抜けに明るい声が会議室に響く。


 沙耶だった。


 腕をまっすぐに伸ばして手を振っている。その笑顔は、今日も変わらない。


 僕は小さく手を振り返しながら、そのすぐ後ろの席に歩み寄った。ジャケットを脱いで椅子の背に掛け、静かに腰を下ろした。


「やっぱこの辺が落ち着くよね」


「最前列じゃなきゃ、どこでもいいよ」


「処刑台ね。あそこはもう二度と座りたくない」


「あの時は、かなり絞られてたもんね」


 沙耶は苦笑いを浮かべた。

 ——そう、遅刻して最前列に座る羽目になったのは、他でもない彼女だった。


 ちなみに処刑台と名付けたのも彼女。


「エアコン効き過ぎてない?」


「そう? ちょうどいいくらいだけど」


「いや、寒いよ」


「なら、もう一枚着てくればよかったのに」


「だって、朝は暑かったじゃん」


「まあ……確かに」


「ジャケット着ないなら、ちょっと貸してもらってもいい?」


「え、あ、いいけど……」


 背もたれにかけていたジャケットを手渡すと、沙耶はそれを迷いなく肩にかけた。

 袖を通すでもなく、軽く羽織るだけ。

 それだけの仕草なのに、僕の鼓動がひとつ跳ねた。


 彼女の華奢な体には、僕のジャケットがあまりに大きすぎて——まるで子どもが大人の服を借りたみたいだった。


 その後ろ姿を見つめながら、心臓がゆっくりと、でも確実に速くなっていくのを感じる。


 ——このドキドキが、ジャケット越しに伝わっていなければいいけど


 そんな、くだらないことを考えながら、僕は小さな背中をぼんやりと眺めていた。


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