第6話カナブン

 カナブンは、夏の夜になると、民家の灯りに群がり、網戸の目にしがみついて、いつも子供には丁度良い『玩具(おもちゃ)』にされる、夏の風物詩である。


 私は、この茶色い地味な色の別に害をもたらすわけでは何も無い、いじめてもしようがないこの昆虫を網戸の網の目の向こう側から指で弾き飛ばし、そいつが物干し竿の一部や、2階のベランダの強化硝子(きょうかガラス)の囲いの硝子(ガラス)面などに頭を打って気絶し、意識が回復して再び飛び立っていくのを見て遊んだものだ。


 現代の、つまり、令和の子供やその親達から見れば、残酷(ざんこく)な遊びに見えるかもしれないが、私がやっていたその当時のこの遊びは、夏休みの、特にすることが無い手持無沙汰な時間を浪費して過ごすには、ちょうど都合の良い、小さな気分転換だったのである。


 しかも、これは、誰かが教えたというわけでは特になく、私が無意識のうちに思い付き、試しに一つ、やってみた所、この悪い遊びは当時の私にとって、得も言われぬささやかな快感を覚えた。気がつけば、物心のついた小さな弟までも、一緒になってこの『おはじき』に興(きょう)じるようになっていた。


 母に見つかり、怒られた時も、私は意に介さなかった。まるきり反省する様子も見せず、堂々としていた。




 カナブンに、人間と同等の人権はない。



 

 それが、私の、身勝手な持論であった。完全に昆虫虐待である。

 そして、夏になると決まって、網戸に集まってくるカナブンをふんだんに虐めた。


 


 いつもの様にやって来た、小学生の頃の夏休みのとある一日の夜。




 私は、夏休みの日課諸々を済ませると、シャワーを浴びた。その後、夕涼みをする為に、既に布団が敷いてある、2階の、家族共用の寝室に向かい、部屋に入ると、大きい方の窓の前に座り込んだ。窓のガラスを開けて、網戸に切り替えると、…どうであろう、例のお客様がまた、網戸にしがみついて、くつろいでいるではないか。私はそれを見て、また、イタズラをしたくなった。


 私はいつも以上に、その小さな虫に対して、思い切り力を込めて網の目の上から右手の人差し指で、強く、弾いてやった。


 案の定、カナブンは後ろ向きで、闇夜(やみよ)に勢いよく吸い込まれ、やがて、いつもより大きくて鈍い音をたてて、ガラス壁に頭をぶつけ、ベランダの床にそのまま落下し、気絶した。

 部屋から外に差す、白っぽい弱い光が、ベランダの床の青白い板をその上に動かないカナブンを柔らかく、優しく照らしている。


 カナブンは、そこにそのまま、じっとしていた。動く気配が一向に無さすぎるのが気味悪く、寧ろそのせいで、私は本当にカナブンを殺してしまったのかと、怖くなってきた。

 だが、この状態では、生きているのか、死んでしまったのか、まるきりわからない。触りたいとも思わないから、確認のしようがない。寧ろ、触ろうとして、瀕死(ひんし)の蝉(せみ)みたいに、突然動いて顔をめがけて飛んでくるのは、お断りだ!


 私は、その場で、動かないで伸びているカナブンをそのままにして、何事もなかったかのように雨戸を閉めた。そして、その日の夜をやり過ごした。


 布団に入った私は、つい先程虐めたカナブンの事なんて、すっかり忘れてしまった。




 翌朝、目が覚めたら、雨戸は既に開けられていた。夏の明るくまぶしい朝の光が、私の顔にジリジリと照りつけている。ふと、起き上がり、ベランダに向き直った直後、私は大事なあることを思い出し、直ちに、硝子戸を開けて、昨夜、カナブンが倒れていた場所に目をやった。



 カナブンは、命果てていた……。



 ピクリとも動かず、その身の上に、庭の地面から家の外壁を伝って上がってきた蟻(あり)たちが、カナブンの身を食べている……。


 無常に非情だ……。

(思いがけずに殺されてしまったカナブンの身を非情にも、蟻(あり)の群衆が食い物にしている……。)


 私は、『生きとし生けるもの』をこの様な残酷なやり方で、思いがけずに殺してしまった事に、罪悪を覚えた。そして、この、蟻(あり)たちに喰われ続ける哀れな小さき者の亡骸を前にして、申し訳ありませんでしたと、合掌(がっしょう)をした。


 その日の夜から、私は『カナブンのおはじき』から、足を洗ったのである。




 何人(なんぴと)たりとも、生命(いのち)を軽んじてはならない。





       『カナブンの死』(おしまい)

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