1部

 恋は人生を豊かにする。私はそう思う。

 私の最初の恋は、1959年にさかのぼる。かなりおそまきの方だ。

何故だろうか。幼稚園は1年しか行ってないし、そのうち戦争が勃発して、小学4年の3学期の終わりまで、2年近く、母の実家がある長崎県に赤ん坊の弟と母と疎開していたのだ。父はずっと戦争に行っていて留守だった。

 戦争末期、長崎市に落とされた原子爆弾のきのこ雲がもくもくと、高く高く空に盛り上がっていくのを、みんなで確かに見た記憶がある。

「ありゃー!近いばい、駅の向こうかにゃー」と叔父が言ったが、その駅というのは祖母の家から、ほんの1・2キロの距離しかないところなのだ。実際この新型爆弾が落とされたのは直線でも40キロはある遠い長崎市だった。


 恋をする環境も心の成長も、情報もほとんど皆無に等しく、知識もないまま、高校を卒業した私は、東京の短大に通い始めてから急激に変わった。勉強もさることながら、都会の遊びをおぼえたのだ。学校を後にすると、真っ直ぐ家に帰らず寄り道するのが習慣になっていった。喫茶店に行ったり、3本立ての安い映画を新宿で観たり、あの頃の新宿、歌舞伎町など、安全とは言えないまでも、今のような危ない街ではまったくなかった。

 銀座の“クイーンビー”は夜はナイトクラブ、昼はバンドを入れて、ダンスホールになっていた。100円か200円の料金で、グラス一杯の飲み物付き、生のバンド演奏でダンスを踊る事が出来た。中でも売り出し途中だった“クレイジーキャッツ”は喋りと演奏が絶妙でとても楽しかった記憶がある。

 6大学野球のシーズンには早慶戦や立教が出る試合になると、休講になる授業があったりして、あの頃はそんなことが普通だったのかな。

 ナマの若い長嶋茂雄さんが、神宮球場のダグアウトにバットをもって立っている姿を私は観覧席から見下ろした事がある。髭の剃り跡が青い彼の顔は印象的だった。大学時代からすでに彼は、大物になる可能性が見えていた。 

 あ、そうだ。恋の話だった。付け加えるなら遊びもある程度、人の成長を助ける大きな要素の一つだと私は思うが、どうだろうか。

 失恋したからもう二度と恋はしない!という人もいるけれど、とんでもない。失恋は、むしろ、経験した方がよいよ。成就した恋だって永遠ではないのだし、どちらか生き延びた方の心に残るかもしれないが、それだってやがては消えてしまうのだから。

恋は何度でも経験すべし。

 

 私の初めての恋は、23歳の春だった。

 私が短大を卒業した秋、父が町で一番最初の喫茶店を開店したのだが、家業であるケーキ販売より喫茶店に魅力を感じた私は、「私にやらせてください」と志願して、新規開店から、喫茶 “M” で働き3年目に入っていた。

 1ヶ月に3回の休業日、これはかなり不満だったが、働き者の父のやり方に従うしかなかった。

 休日のある日、私は新宿に出かけて行った。私の町には洋画の上映館がなかったから、観たい洋画やショッピング、ジャズ喫茶、お酒を飲んだりは新宿。たまに、友達と銀座、時には横浜が私の遊び場だった。

 夕暮れになり、いつもより早く帰ろうと私は新宿駅の南口に向かっていた。

商店が途切れたゆるいスロープを降りかけた時、「もう、帰るの?よかったら

お茶しませんか?」と男性の声が、斜め上の方から聞こえた。

えっ?振り返ると、薄墨色の大気の中に、背が高いスリムな男性が、感じのいい笑顔で立っている。

その爽やかな笑顔に安心して「ええ、いいですよ。少しなら」

私は答えて、駅のそばの喫茶店に男性の後について階段を上がって行った。

 コーヒーをオーダーして、テーブルを挟んで彼と相対して、驚いた。

照明の中、まじかで見るその人は、私が思うハンサムの基準をはるかに超えていたのだ。

しかも、彼が話す話題は楽しくて話がはずんだ。私は色白の、都会っぽいきれいな顔を見ているのが楽しかった。

と、パトカーのサイレンの音が遠く聞こえてきた時だった。

「あれね、俺を捜してるんだよ」真面目な表情で彼が言ったのだ。

一瞬、えっ! やだー と思ったけど、「ふっ ふっ ふっ!」て笑っておいた。


 Kと名乗ったその人と、私は時々デートをした。

いつもKさんは楽しい人だったけど、謎めいた人でもあった。思うに、私は

彼のことを名前以外何も知らなかったのだ。

わたしはそれでよかった。そして、だんだん、Kさんを好きになっていったのだ。それは初めての感情だった。彼はどのくらい私を好きだったのだろう。


 何度目かのデートで、Kさんが私の町を訪ねてきて、二人でバスに乗って

ある渓谷に行ったのは夏になる頃だ。

 巨大な岩と岩の間に隠れて、彼の顔がすーっと近づいて、私の唇にそっと触れた・・・キス? それからというもの彼とのキスに夢中になったのは、私の方だった。

 

 淡いグレーのスーツをすっきりと着こなした彼と、えんじ色の紗の着物にオフホワイトの塩瀬の帯を締めた私。京橋のテアトル東京で、

あの壮大な映画“Ben -Hur”を並んで鑑賞した。9月17日。私の24歳の誕生日だった。

 

 秋、私はKさんと熱海駅に降り立っていた。二人で小さな旅をしたかったのだ。駅前には旅館の客引きが数人たむろっていたが、1人がKさんに近づいて、旅館を紹介しようとしたのだろう。それに答えるKさんの声を後ろに聞いても、私は振り返ることをしなかった。

「うん、だけどさー、この人の親父がうるさくて、泊まれないんだよ」と彼は答えていた。私に訊きもしないで答えるKさん、でも、訊かれたら私は承諾しただろうか。私はうつむいたまま、自分の靴先を見つめていただけだった。

 わたしは試されたのかしら。それとも彼自身が、自分を試したのか。

 私には原因がわからないまま、いや、うっすらとはわかっていた気がする。Kさんとの別れがやってきたのだ。

Kさんは、私と知り合う前から、1歳年上の女性と同棲していて、わたしを好きだけど、好きだから、同時進行は出来ないと告白した。

正直だけど私には残酷な告白です。

「勝手だー」と思った。けど・・・そう言われてしまっては引き下がるしかないかな、とも思った。

私の最初の恋、1歳年下の男性との恋はしばらくの間その面影を引きずりつつ終わった。

 何ヶ月過ぎた頃だろうか、神のいたずらか、新宿駅の地下道で、K さんに遭遇したのだ。プラットフォームへと上がる階段の途中で、あとホームまで数段残した上の方から、私を見下ろす一人の男性。Kさんだ!何気に上を見上げた私は彼に気づいた。Kさんは、ホームの方を向かず、なぜ下を見たのだろう。私はなぜ、上を見上げたのだろう。彼は下まで降りてきて少しの間だが、話をしたのだった。不思議な忘れられない一瞬だった。

 

 初めての恋は8ヶ月で破れたが、心に恋の免疫ができたのも確かだ。

な~んて、時が過ぎれば思えるが、あの頃はまだ彼が好きという自分の感情の持っていき場がなくて、傷心を癒す旅に出かけたのだ。

 一人旅は初めてで、長崎県の小さな町の祖母の家と市内の叔母たちを訪ねるつもりだった。

祖母の家に2泊して、雲仙のホテルに2泊、そして、市内の叔母の家に2泊、そんな旅の計画だった。

 傷心の旅のつもりのこの計画は今思えば発想がやや乏しい。

 軽井沢みたいな、ロマンティックな場所に1人旅をして、そこで、すてきな人に出会う。みたいな発想がなかったんだから。

だけど、気持ち的収穫があったのだ。

 

 「ありゃー、ずいぶんと、ふとなって!」と、久しぶりに会った祖母に感慨深げに言われ、その意味が “大きくなったね~” という、この地方の言い方だと知っていても、わたしは何か少し気を悪くした。

 3日目、叔父が軽トラで雲仙のホテルまで送ってくれた。

叔父が選んで予約しておいてくれたのだが、かなり格式がありそうなホテルに一人で宿泊すると思うと、私は少なからず興奮した。

 フロントのカウンターに肘をかけ寄りかかるようにして、私のチェックインの手続きしてくれる叔父の背中を、自分で出来るのになあ、と思いながら見ていたのだが、叔父の足元に目が行き、ゴム長靴をはいているのを見て、私は恥ずかしくて周りの人の目がひどく気になった。

 

 ホテルのディナーはフランス料理のコースだった。

ホークとナイフが皿にぶつかるかすかな音。話し声さえほとんど聞こえない静かすぎるダイニングルームで、白いクロスがかかったテーブルの前に私は一人で座り、フランス料理を食べるのは緊張気味だったが、洋式マナーはすでに知っていたので、ほっとし、料理をたのしむ余裕があった。

 2日目のディナータイムが終わって、部屋に帰ろうとした時、一人の男性が近づいて来たので、私は少し身構えた気がする。その人は、

「部屋で、コーヒーを飲みませんか?」と私を誘った。

その時の私から見れば、かなり年上の、と言っても40歳代の上品な感じの、おじ様だった。なぜ、ロビーではなかったのだろう。それで私は警戒したのだろうか。それとも、若い男性だったらどうしたか、違う返事をしたかもしれないが、この時は、

「何ということもないのですが、辞めておきます」と返事をしたのだ。

「何ということもないのですよ。少しいいではありませんか」と反復するようにその人は同じ言葉を言いながらも、それ以上、しつこく誘わず、

「明日、ここを発つのなら、バスで市内まで一緒に行きましょう」と言う。

それは、承諾した。

 翌日、バスで長崎市に到着すると、おじ様が昼ご飯をご馳走したいと言う。

これは遠慮なく頂くことにして、長崎の名物料理だったと思うけど、ごちそうになった。

 何ということはない、中年のただのやさしい男性だった。


 叔母の家に向かう前に、一人で私はロードショウ映画を観たのだ。

アメリカ映画の「Once a Thief 」を観た記憶があるのだが、調べてみると、公開年号が合わなくて、私が観たのはフランス映画の「お嬢さんお手柔らかに」の方らしい。

双方とも、アランドロン主演だが、アンマーグレットがアランドロンとバイクに乗っている鮮やかなシーンが記憶にあるが、やはり、長崎で観た映画は「お嬢さんお手柔らかに」の方なのか。

いや、やっぱり、あの時観たのは「Once a Thief 」なのだと、私の記憶はどうしても逆らってしまう。

 問題はその時初めて見たスクリーンのアランドロンなのだ。

あの、Kさんが、なんとアランドロンにそっくりではないか!? びっくりした私は「ハァー!」と暗い座席で1人で大きなため息をついたのだった。

無論、Kさんの日本人である特徴は歴然だが、すごく似ているのは驚きだった。以来、アランドロンをスクリーンに観るのが、別の意味ですごく楽しくなったのだ。

 

 叔母の家に2泊の予定で、世話になった夜、夕食の後、内風呂に入れてもらったが、小さくて箱のような湯船のお湯がとても少なくて、膝を抱えるようにしてやっと胸の下まで浸かれる量に、もしや湯が漏れているのではと慌ててしまった。しかしそうではなさそうで、サラリーマンである義理の叔父のつましい生活を思ったのだった。

 私の父はザーザーと溢れる程のお湯を湯船に満たして、つかるのを楽しむ人だった。

あれは、商人である父の贅沢のひとつだったのだろう。

 市内には、叔母が3人住んでいた。

2日目、“端島” (軍艦島)に住んでいる、結婚したての、私より3才上の叔母に会いに、二番目の叔母の連れ合いである義理の叔父が連れて行ってくれた。海の向こうに見えている島に、小さな船で渡った。

 たまにテレビで端島の現在の様子が放映されたり、最近のことだが、テレビドラマで端島が舞台の活気に溢れた頃を再現していた。あの島の再現は、素晴らしいものだった。私は当時の端島に住んでいた若い叔母の姿を、一番繁栄していたころの島の生活を、私が実際に見た昔のかすかな記憶を思い起こしながら、テレビドラマを楽しみ、観たのだった。

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