2部

1961年

 ある日、一人の黒人の男性が私が働いている喫茶店に入ってきた。

高校生の時から洋画ばかり観ていた私だが、ナマの外国人を目の前に見るのは初めてのことで、私は戸惑ってしまった。

その人はコーヒーをオーダーして、カウンターの脇のプレイヤーと、私のコレクションであるジャズのレコードに気がつくと、嬉しそうに屈託のない笑顔を私に見せて、椅子をプレイヤーの前に持って行き、どっかりと腰を下ろした。聞こえてくるモダンジャズに彼は、指を鳴らし足でリズムをとって、ごきげんな様子だった。この記念すべき最初の外国人の名前はドーヴさん、忘れようもなく憶えている。

 ある日曜日の夜、ドアがサーっと開いて白人の男性が店に入ってきた。

その人はカウンターの前の二人掛けのテーブルに腰を下ろした。

コーヒーを前に両手を膝に置いて、端然と椅子に掛けている様子は、まるで優等生の様に行儀がよく、私は好感を持った。

何か話してみたいと思ったが、憶えている英単語はそんなに多くはないし、どう話しかければいいのか、会話の仕方を私は知らないわけで、その人は日本語はまったく話せないらしいのだ。それで最初のうちは目が合うと、お互い微笑み合うだけという感じだった。

 その外国人は、毎週日曜日に現れた。段々と少しずつお互い片言で話すようになると、彼はメキシコ系アメリカ人で、軍属として日本に来ていること、日曜は空手道場に通っていることなどが分かってきた。滑らかな白い肌に黒い髪グリーングレーの瞳を持ち穏やかでおとなしそうな人、そんな印象のその人は、名前をラウルと名乗った。

 戦後のこの頃、外国人はまだ珍しかった。そのせいだけではないと思うのだが、私は彼のグリーングレーの瞳に魅了されたらしい。

毎週、コーヒーを飲みに店に寄るようになってどれほどたってからなのか。どんな言葉で彼が誘ってくれたのか憶えていないのだが、ある日、私はラウルと東京方面に出かけたのである。


 「De’me la mano 」日比谷の映画館のシートに二人で並んで座ると、ラウルはそう言って、私の右手を優しく握って、映画が終わるまで離さなかった。スクリーンでは三船敏郎主演のメキシコ映画「価値ある男」を上映していた。

メキシコを愛する彼は「手を、貸して」とスペイン語で言ったのだ。

彼の手は暖かく少し湿っていて、拒む気はまったくなく心地良ささえ感じた私の手はずっと、彼の手の中に包まれていた。


 映画の後、どこかレストランで洋食の食事をした。彼がほとんど何か話し、私は相槌を打つ方が多かった記憶。仕方がない、私は決して寡黙ではないが、私の英語は会話にまで到達していなかったのだから。相槌を打つだけの私を彼は退屈と思わなかったのか、食事の後私たちは日比谷公園に足を延ばした。

一つのベンチに一組のカップル、そんなベンチがあちこちにあって、二つの影が寄り添いひっそりと座っている様子は、何か秘密めいていて、私の方が彼らのアバンチュールをそっと覗き見ているような不思議な感覚があった。

「日本人は静かだね、ラテンピープルはすごく情熱的だよ」その静かさに驚いたのか、ラウルがそう言ったのが印象的だった。

 

 最初のデートから3ヶ月が過ぎた冬の初めごろ。場所はシティホテル、多分銀座。私はラウルとホテルのフロントに立っている。突然、そこに舞い降りたかのような記憶なのだ。

「黙っているように」とラウルは私に言ってから、英語ではなく彼はスペイン語でフロントマンに、

「部屋を予約したい」と申し入れた。すると、フロントマンは、英語で「結婚証明書をお持ちですか」とラウルに答えたのだ。なんと!そんな・・・

周囲は暗く沈んで、私たちだけがスポットライトを浴びて照らし出され、立たされているような、消えてしまいたい恥ずかしさの記憶は強く、この後はどうしたのか、まったく、おぼろに霞んでしまっている。 

 付き合ってから3か月を過ぎたころのことで、どうして銀座のシティホテルに私たちは行ったのだろう、彼を思う気持ちが完全に熟していて、彼のすべてを知りたかったのか、性に対する好奇心からだろうか。

 この取り澄ましているホテルの対応は私の記憶違いなのか。それとも、

1961年にはそんな規定が存在していたのか。分からない。

 

 しばらく過ぎて、ある湖のほとりの日本旅館の部屋で私はついに彼の愛を受け入れたのだった。

 ラウルは性愛を初めて経験する私を、優しく導いてくれた。彼は私より3歳若いのだが、とても慣れている様子で彼の愛撫は優しく細やかで、私は恥ずかしさの中に微かな快感さえも感じながら彼に任せていればよかった。

 翌日、昼ごろまで、私の両足の太ももの間に何かが挟まっているような感覚が歩く時にあって、その初めて感じる奇妙な幻の存在に、 ああ・・初体験の

後遺症?私はひとり小さくわらったのだった。 

 

 私がラウルとの恋に夢中になっていったのはごく自然のことだったのだ。

 もともと、高校時代から、好んでアメリカ映画ばかり見ていた私は、勉強は好きなほうで、彼と話がしたくて、アメリカ映画から簡単な会話のフレーズを覚えるのに夢中になった。 

 最近のアメリカ映画の会話は、喋りが早すぎるし、スラングが多く、わかりにくいし、聴いて覚えるにはあまり好きではないが、50年代から70年代ごろのアメリカ映画のセリフは言葉がきれいだし、発音も分かりやすい。

日本映画もしかり、ずっと昔の映画の方が日本語のセリフがゆっくりで、美しい本当の日本語を聞くことが出来ると私は思う。

 英語のスタンダードナンバーの歌詞を覚えたり、方法はそんなものだが、どうにか彼との意思疎通は出来ていたと思う。だが一度だけ、ラウルが物凄く怒ったことがあった。

 彼が友達のクルマのキャデラックを借りてきて、ドライブをしていた時だった。何を私はしでかしたのか、それとも言ったのか、ラウルが突如烈火のごとく怒りだしたのだ。車の運転をしながら怒っているので私は怖くてたまらず、車のドアノブに手を掛けてドアを開けようとした。まさか、あの時飛び降りようとしたのか、単にポーズだったのかは、自分でもはっきりしない。

 この時以外彼が怒ったり、彼と私が喧嘩をした記憶はない。喧嘩するほど複雑な会話などないに等しかったし、不思議なことに、感情の行き違いもほとんどなかった。

 休日のほぼすべての時間、店の閉店後ラウルが電車を待つ少しの時間を私たちは一緒に過ごした。

 横浜の友達を訪ねたり、吉祥寺の友達の家に彼を連れて行ったり、かなり個性的なラウルを私は自慢したかったのだ。歌手の友達が出演している、池袋のクラブに連れて行ったこともあった。

 Kさんと一度行って日帰りをした熱海に、ラウルと行ったのを思い出す。一泊した旅館の名前は忘れたが宿の浴衣を着て、ちょっぴり照れているラウルが仲居さんに、「お似合いですよ」と褒められて、嬉しそうだった彼の笑顔を憶えている。

あの頃、カメラはまだ贅沢品で、私は持っていなかったから、これは私の記憶だけなのが残念だ。

 2個年下のいとこのカップルと奈良に4人で旅行したことがあった。いとこの彼が撮ってくれた列車の中や、ホームで列車待ちしている様子、和室での朝食風景のモノクロの写真が数枚残っている。

 二日目にいとこの彼に、

「ユウコちゃん、あんた達、喋らなくても通じるんだねー」と言われ、その言い方は明らかに私をからかっていた。内心は癪に障ったが、

「ふ~んそうだね」私は平気でその言葉を聞き流した。

ラウルとの意思疎通に沢山の言葉を必要とはしなかったからだ。

そして彼と愛し合うたびに、私は本当に彼に愛されているという実感があった。

 「ユウコ、私たちは世界一幸せなカップルだよ」彼はよくこの言葉を私に言っていた。「愛してるよ」と言われるより、私はこの言葉の方が好きだったのかな、こっちの方を覚えている。

 そう、何と言おうと、私と彼はうまくいっていたのだ。

 店のドアをさーっと外側に開いて、店に入ってくる彼を私は待ち焦がれた。あの瞬間を思い出すたびに、今でも私の胸は切なくなる。だけど・・・

  

 ラウルとの別れがやってきたのだった。永久に続くとは考えていなかったが、私には早すぎる別れだった。何事にも終わりがあるって承知していても、若い私にとってこの時のショックは大きかった。

 彼は日本での任期が終わって、国に帰り、電気技師になるための学校に入るのだと私に話した。

2年たったら、ユウコに会いに日本に戻ってくる、だから手紙を書くのを約束して欲しいとも言った。

「手紙は、どう書くかは重要ではないよ。とにかく書いてほしい」この言葉を残して彼は私の前からいなくなった。

 この時の私の気持ちどうだったのだろう。今考えてみても実際はよく憶えていない。ああ、行ってしまうのね、という思いが強かった、ひどく寂しい、という思いもあった。だけど、どういうわけかほっとした感じもあった気がする。

このまま突き進んだら、どうなるのか想像ができない、不安だったのだ。

 1ドルが360円、コーヒーが一杯50円、60円の時代だ。アメリカまでラウルを追いかけていこうなど、発想すらなかった。

 下手な英文の手紙を彼に1年以上は書き続けたと思う。そして、いつしかそれは途絶えてしまった。


 1963年 

 私は休暇どころか、連休さえほとんどない喫茶店の仕事に心も身体も疲れ果てていた。

 毎晩、店のレジを締めに来る父にある晩、休暇が欲しいと願い出た。すると、父は虫の居所が悪かったのか、「勝手にしろ!」と怒鳴ったのだ。これは父の口癖みたいなもので、そう言えば何でも物事はもとに収まると信じているところがある。私はひるまなかった。

「そうします!店をやめます!」すかさず答えていた。何の迷いもなかった。

 20歳から、店の二階に住んで、親元は離れていたが、本当の家出は初めてのことだった。

 新宿から電車で15分の場所に部屋を借りた。4畳半一間で、ちっちゃなシンクとガスコンロ一個がやっと置けるままごとのようなキッチンがついていた。むろん風呂はない。うすぼんやりとした明かりの共同のトイレはヒューズが飛びやすく、度々暗かった。

 それから職を捜して、友人の知り合いの紹介で、新宿にあるクラブ “Q” を紹介してもらった。新宿ではやや高級なクラブらしく、ドレスではなくほとんどのホステスが着物を着ている店だった。

 私は幸いなことに着物を数枚は持っていたし、それを着るときは、叔母が着つけてくれていたのだったが、自分でもどうにか着付けはできていた。

 水商売とはいえ喫茶店とは大違いだとすぐに気づいたが、特技が何もない私にすぐできる仕事はないのだから仕方がない。だけど、少し仕事に慣れるにつれ、他の人よりはましにできる英語の会話が役に立つこともあった。

 この体験は水商売を垣間見た、というか私の人生のいい経験になった。が、そうはいっても、クラブのホステスは私の性に合わないと思い知った結果、学生時代から知っている、マスターの店のスタンドバーに仕事を変えた。

こちらの方が、仕事は楽だったが、再三言って来ていた母からの帰れコールに負けた形で、親が住む家に帰らざるをえなくなり、7か月程で東京をひきあげたのだった。

 


1964年

 冬、ある土曜日の夜、私はデパートに勤める友人と、新宿のクラシック喫茶の地下にある、その頃はコンパと呼ばれて巷で流行していたカウンターバーにいた。 

両親が住む店舗の3階に暮らして、店を手伝い、気ままな生活になっていたから、以前とは違い週末に出かけるのは自由だった。

 バーの中は週末で賑わっており、かなり広い店の中、カウンターがいくつかあって、それぞれにバーテンダーが一人ずつ配置されて、サービスをする形式になっていた。

 私たちは半円になっているカウンターのカーブが終わる部分の丈の高いスツールに座って、ビールを飲んでおしゃべりに興じていたが、ほどなくして私は何か視線を感じ、そちらの方へ目を向けた。カウンターの真ん中あたりにいる一人の男性がこっちを見ている。気付いた私が見返しても、その人は視線をそらさず、じっと見ている。私がたまらなくなって、いったん目をそらしてから、又見ると、向こうはまだこっちを見ている。見知らぬ人と、30分以上も見つめ合いが続いただろうか。こんな人、日本人では珍しい。

友人が「帰ろうか?」といい、スツールを下りて、スカーフを頭に被る動作をことさらゆっくりとして、私たちは出口へと向かった。

 1階に上がる螺旋階段の手すりに両手を広げて、立ちはだかるように一人の男性が私たちの行く手を阻んだ。私を見ていた男だった。

「ね~、俺たちとお茶しない?」向こうも二人らしい。

私たちは承諾して4人で歌舞伎町のビルの二階、何か山の名前が付いた喫茶店に入った。

この時何を話したのだろう。不思議なことにまったく何も覚えていない。

 その人は K・Sと名乗り、一緒にいた友達はたしか斎藤さんといい、ごつい感じの人だった。

Kさんは、どことなくあのKさんに似ていると、後になって気が付いた。身長は同じくらいだし、顔の造作も似ている、つまりハンサムなのだ。

 

 1965年

 秋、渋谷駅からほど近い所に部屋を借りて、私とSは共に暮らし始めた。

Sとはデートを重ねていたが、逢う回数が増えるにつれて、違う場所にそれぞれ帰らなければならない。別れがつらいと感じ始めての決断だった。

 Sは私より7歳若いというのを少したってから知ったが、私にとって顔も性格もとても魅力的だった。彼は大型二種免許を持っている大型トラックのドライバーでこの時は、大手の運送会社の社員だった。

 部屋は、畳一枚分のキッチンが付いた6帖一間で、家主が階下に住んでおり、アパートというより、三部屋に三世帯が住む間借り、の部屋だった。

 整理ダンスと洋服ダンス、それと14インチのテレビがあったが、室内アンテナなのでかなりボケた映像の画面を、一人でいる時、アメリカのドラマ「奥さまは魔女」を楽しみにして観た記憶がある。

テレビはあるのに、洗濯機は置き場もなく持っていなかったので、たらいに洗濯板をおいて、衣類をこすって洗った洗濯物はなかなか乾かず、長い時間軒下につるしておかねばならなかった。

 正式に彼の郷里で私たちが結婚式をあげて、籍を入れたのは住まいを世田谷の方に移してからだった。

 一緒に暮らして2年ほど過ぎたころ。

私は夫の悪癖というか、彼自身がそれほど重大とは思っていないらしい生き方や暮らし方、価値観の相違に気が付いた。いつから始まったのか、私と知り合う前からなのか。彼はギャンブルにのめり込んでいたのだ。

それまでギャンブルをする人が、私の周りにいなかったので、どうしたらいいのか私は途方に暮れた。

 ギャンブルとはなんと虚しいゲームだろう。得るものは何もないのに、失うものは限りなく多いと、私は思う。長男が生まれても、彼のギャンブルは収まるどころか、むしろ激しくなっていった。

 ひと月分の給料を一晩で使い果たしてしまう。そして、数日帰ってこないことも、これを年に何回も繰り返すようになり、私は先行きの生活に不安と恐怖を感じ始めていた。

 長男が生まれる前に実家がある街に、小さな一軒家を借りて、移り住んで私も働いていたが、生活費はとても足りるものではなかった。

彼は何故生きていく伴侶に私を選んだのだろう。わからなくなった。 

 麻雀で、疲れ憔悴して帰って来て、そして死んだように眠ってしまう夫を見るのは辛かった。仕事に遅れる、と心配した私が無理やり起こすと、彼は怒り、私は殴られて顔が腫れて人前に出られなくなり、仕事に行けない。

こんなことが何度かあり、一か月分の給料を一晩で使い果たす。これが年に何回も続くようになると、夫と生活するのは絶望的と感じるようになった。


 夫と別れて私は子供と二人で生きていけるのかと、自分に問い続け、一人で考え続けた。

そして1年が過ぎていた。その間に私の頭には数個の円形脱毛が出現していた。わたしは悩みがあると頭の毛が抜ける人なんだと知ったのだった。そして数日行方不明の後、朝帰りした夫が「あれ!!その頭、どうしたの?」と素っ頓狂に言ったのだ。なんと鈍感なのだこの人!

ようやく私の離婚するという決心は固まった。

 家庭裁判所に出向いて、離婚の調停を申し込んだ。結婚後16年が過ぎていた。

 調停は三度に及んだが、夫が離婚に応じなかったので、結局不調停に終わった。が、私ははっきりと意思表示をしたつもりだったので、それでもよかった。彼にとってここ数年は眠るだけのために帰って来ていた家なのだから。彼はほどなくして家を出て行った。そして2ヶ月後には離婚届けにサインをしたのだった。

 彼の人生の伴侶はというより生きる目的はギャンブルなのだ、と私はいまも確信している。





1971年

 息子が1歳を過ぎたころ、以前にバンドでボーカルとギターを担当していた友人と偶然街で出会った。しばらく話をしてみると、近くに住んでいるという。思いのほか近くだったので、ある日私は息子を連れて訪ねて行った。彼は仕事がら話すのが好きな人で、しばらくぶりだが気楽に話すことができたのだが、

「あのさー、あのメキシコ系の彼から、クリスマスカードが来たよ、彼、俺のこと憶えていたんだね」と少し嬉しそうに云うではないか。

「へ~そうなの?住所教えて!私も連絡してみたい」何気に返事をして、見せてもらった封筒にはラウルの懐かしい筆跡の文字があった。住所をメモして家に帰ったが、ぷっつりと切れていた細い糸が、はからずも偶然繋がったわけで、この偶然に私は感謝した。

 ギャンブルにのめり込んでいく夫に絶望し、子育てに追われ、なにかにすがりたいと悩んでいたのだろうか、頭の中をラウルでいっぱいにしてみると、悩みは少し遠のくような気がした。何か漠然とだが、ラウルはいつしか私の心に宿る救いの神であり、癒しの神になっていた。私はなにかしら避難場所が欲しかった。

そんな時、ラウルの居所がわかったのだ。神に願いが通じたと思った。

しかし、連絡をしていいものか迷ったあげく、数か月が過ぎてやっと私は彼に手紙を書くことが出来たのだと思う。

なんとすぐに返事が来たのだ。

1971年8月と消えかけたスタンプが押されている封筒がある。私がラウルに出した手紙の最初の返事だ。

“Dear Yuko”

I was truly supprised and happy to hear from you ・・・

と始まり、最後の数年、私にクリスマスカードを送ったけれど返事がなかった。と書いてある。なぜ、私は返事を出さなかったのだろうか。悔しいが憶えていない。

1971年9月のラウルからの返信には、

「そう、私は結婚しています。そして、5歳になる息子が一人いる。

写真を送ってくれたけれど、Yukoは髪を短くカットしてしまったね。長い髪があなたは似合うのに、

Much more beautiful with long hair, could you let your hair grow long again ?

ずっとラウルの記憶の中には、ロングヘアの私がいるらしい。一度だけ髪を伸ばして、アップに髪を結った浴衣姿の写真や、正月には日本髪に結い上げた写真があるが、あれは確か彼が去った後のことだったはず。

私にはストレートのロングへやーなんて似合わないと、ずーっと自分では思っていた。

 

 現在、まだ手元にはラウルから来た手紙や、カード類が48通残っている。それらは、1971年から1997年までで、白い箱に入れているが、数回の引っ越しに耐えて黄ばんで破れかけているのもあるけれど、これらをこのまま、私はまだそばに置いておくつもりだ。

ここ10年ほどは遠い霞みつつある思い出になっているだけだけれど。

 

 あらためてラウルからの返信を読み返してみると、彼に出した手紙を書いた時の私自身の感情や、その時何を考えていたのかが見えてくる。

特に単身赴任していたらしいブラジルからの手紙は、寂しげな彼の感情が伝わってきた。

「昨夜、あなたの夢を見たよ、Yukoからの lovely leterを何回も読み返した」とか、書いてあるのを読むと、おそらく子育て中に読んだ当時よりも、半世紀以上過ぎた今の方が、切ない思いがする。


 私はラウルに手紙を書いた。時に何か月も途切れたりすると、ラウルは心配してくれて、書けない何か事情があるのですか?もしそうであれば話してほしいとか、私の健康を気遣っている返信もあって、やっぱりラウルは私にとって確実に癒しの存在になっていった。


 「この国をあなたが訪ねて来てくれるとしたら、もちろん大歓迎だよ。あなたと過ごした時間を私は今も忘れてはいない」

1979年12月のラウルからの返信にはそう書いてある。

私はひどく驚いた。79年にそんな希望を私は持ったのかと。ただ、逢いたいとひたすら思っていた自分を思い出す。一層、生活も心もみじめになっていたころだから、何か救いがほしくて、思い付きみたいにラウルに訴えてしまったのかもしれないのだが。

ラウルはいともすんなりと私の希望を受け入れてくれただけでなく、彼も私に逢いたいと思ってくれているのが分かった。ラウルに逢えれば、私はそれだけでよかった。

 希望は人に勇気と先に進む力を与えてくれる。私はいつか希望が実現することを願った。

 離婚を決意しても私は夫を嫌いにはなれなかった。ただ、彼の生き方に絶望していた。私や息子のことよりも、生活そのものよりも、何よりもギャンブルが先行することが、どうしても理解できなかった。 

離婚が成立したのは離婚を考え始めてから、2年近くが過ぎていた。

 世田谷区役所に離婚届を出しにいったのは私だが、届を出す瞬間、一瞬だが少しのみじめさと、残念な思いがあった気がする。

 

 元夫の居所は、10年以上不明のままだったが、その間に、彼が持ち去った車の税金を私が支払う羽目になった。それも2回である。支払わないと、固定電話を差し押さえるという通達があって、私は電話局に出向いて、固定電話の名義変更をしたかったが、元夫の署名が必要とかで、変更はかなわず、養育費をくれないどころか、去ってまでもこんな迷惑をかける元夫に呆れたが、ギャンブルを辞めてはいないことに私は確信を持った。そして、確信は当たっていたのだ。

 離婚後今までに、数回、元夫に会ったり、年に一度程度、電話で話したりしてきたが、40数年以上彼の生活は、以前のままのギャンブル中心の生きかたをしているのか、かなり生活に困っているらしい。もともと働く人なのだが、働けど、働けど、生活が全然楽にならないのは何故か、と考えも及ばないのだろう。なぜそんな困窮生活を続けなければならないのか疑問にも思わないとは、不可解というよりほかはない。


「また一つ年を取りましたね、元気?」と私。

「疲れるよ、きついよ、でもね今、朝、5時から11時まで、週3日働いているよ、働かしてもらえるのはありがたいよ」

81歳過ぎてもなお、タクシー運転手で働いていることを負け惜しみではなさそうな、むしろ誇っているみたいな言い方はさすが、ご立派! 

今年、2025年1月に、珍しいことに元夫から私の携帯にかかってきた会話である。


 59年前に、私は結婚という大きな人生の賭けをした。だが、私は自ら望んでその賭けを降りたのだが、彼と結婚したこと、そして、離婚してしまったこと、後悔はまったくしていない。

何か言うとしたら、ひたすら、残念としか言いようがない。



1982年 6月

It is almost like a dream to realize that we will soon meet again ・・・

と書き始めのこの手紙を私は1982年の6月に受け取っている。

ということは、私は自分のプランを立ててラウルに知らせたのだろう。

そして、彼は自分のプランを作ると手紙は続いている。

 何回かの手紙のやり取りで、私はラウルに逢うために夢に見たロサンゼルス行きを決心した。

 1982年の夏は、私にとって特別な夏であり、私の長い人生の中で最も輝いた10日間だった。      

 

“夏の日の  1982” に続きます                   

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