第2話

翌朝。


「……夢、じゃなかった」


スマホの画面に表示された『¥10,000』の文字を見て、思わず乾いた声が出た。

昨夜の出来事は、まだ生々しい手触りを残している。


『必ず、あなたを見つけ出すわ』


あの不気味なメッセージ。

一体誰なんだ? ストーカー?

それにしては、一万円は気前が良すぎる。


「……どうしよ」


幼馴染の詩織に話すべきか?

いや、あいつに言ったら最後、「ほら見なさい!」と大騒ぎして、あっという間に学内中に広まりそうだ。

それは、絶対に避けたい。


重い足取りで教室のドアを開けると、いつもと少しだけ空気が違った。

何人かが、ひそひそとスマホを覗き込んでいる。


俺の鋭敏な耳が、その会話の断片を拾ってしまう。


「……聞いた? Rin-Rinが言ってた新人」

「聞いた聞いた! なんかすごいらしいじゃん?」

「でも正体不明なんだって。"Yuki"って名前しかわかんないらしいよ」


心臓が、どくん、と跳ねた。

Rin-Rin?

まさか。


慌てて自分の席に着き、こっそりスマホで学内SNSを開く。

トレンドのトップに、その名前はあった。


『響木凛(ひびき りん)/ "Rin-Rin"』


この星奏学院の配信界隈で、女王のように君臨するトップASMR配信者。

その彼女の最新の投稿に、俺は目を疑った。


『昨夜、面白い新人さんを見つけちゃった。"Yuki"くん、だっけ? なかなかいい音、持ってるみたいじゃない。私と、どっちがみんなを気持ちよくさせられるか、勝負してみない?』


挑発的で、蠱惑的な文章。

コメント欄は、熱狂したファンたちの書き込みで溢れていた。


「おいおいおい……」


顔が青ざめていくのが自分でもわかった。

なんでこんなことに。

ただ一度、詩織との付き合いで配信しただけなのに。

学園の女王様に目をつけられるとか、最悪すぎる。


「ユキー! おはよ!」


背後から、能天気な声が飛んできた。

詩織だ。


「お、おう……」

「なんか顔色悪くない? 寝不足?」

「まあ、ちょっとな」


言えない。

あんたのせいで学園のトップ配信者に喧嘩売られましたなんて、口が裂けても言えない。



昼休み。


「え、マジで!? Rin-Rinが!?」


結局、俺は詩織に全てを話していた。

案の定、彼女は目をキラキラさせて大興奮だ。


「すごいじゃんユキ! 一夜にして超有名人!」

「有名人っていうか、目をつけられただけだろ……怖いって」

「何言ってんの! チャンスだよ、ビッグチャンス! これはもう、受けて立つしかないでしょ!」

「断るに決まってるだろ! 勝負なんて冗談じゃない!」


俺が全力で首を横に振ると、詩織はむっと唇を尖らせた。


「もー、ユキは昔からそうなんだから。せっかくの才能、宝の持ち腐れだよ」

「……俺には、厄介なだけだって」


そう。この耳は、聞きたくもない音まで拾ってしまう。

人の悪意、嘲笑、偽りの言葉。

それらから身を守るために、俺はいつだって気配を消して生きてきたのに。


「……とにかく、次の配信のことはまた考える」

「えー! 今夜やろうよ! Rin-Rinへのアンサー配信!」

「無理だって!」


詩織と押し問答を繰り広げていると、ふと、食堂の空気が変わった。

騒がしかったはずの空間が、水を打ったように静まり返る。


視線が、一点に集まっていく。

その先にいたのは。


「……生徒会長」


藤堂怜香。

完璧な姿勢でトレーを持ち、優雅に歩く姿は、まるで一枚の絵画のようだ。

取り巻きの生徒会役員を数人引き連れている。

学園カーストの、まさに頂点。


住む世界が違う。

そう思って視線を逸らそうとした、その時。


その藤堂怜香が、まっすぐ、こっちに向かってくるのが見えた。


「え」


俺の隣で、詩織も息を呑んでいる。

まさか。いや、ありえない。俺たちのことじゃない。俺たちの後ろにいる誰かだ。


そう思ったのに。


「ごきげんよう」


凛とした、鈴を転がすような声。

気づけば、藤堂怜香は俺たちのテーブルの真横に立っていた。

ふわりと、上品な石鹸の香りがする。


「あ、か、会長……ごきげんようございます!」


詩織が慌てて立ち上がって挨拶する。

俺もつられて、ガタッと椅子から腰を上げた。


「水瀬雪くん、だったかしら」


怜香の、吸い込まれそうなほど黒い瞳が、まっすぐに俺を射抜く。

なんで、俺の名前を?


「は、はい」

「少し、お話があるの。放課後、生徒会室に来てくれる?」


有無を言わさない、穏やかで、それでいて絶対的な響き。

断るなんて選択肢は、どこにも存在しなかった。


「……わかり、ました」


頷くのが精一杯だった。


怜香は満足そうに小さく微笑むと、何も言わずにその場を去っていった。

嵐が過ぎ去った後のように、俺と詩織は呆然と立ち尽くす。


「……な、なんでユキが、生徒会長に?」

「俺が聞きたい……」


Rin-Rinからの宣戦布告。

そして、生徒会長からの呼び出し。


たった一日で、俺の平穏な日常は音を立てて崩れ始めていた。




放課後。

重い足取りで生徒会室へ向かう途中、後ろから声をかけられた。

振り返る必要もなかった。

さっき食堂で聞いた、あの香り。


「水瀬くん、一人?」


藤堂怜香だった。

なぜか、彼女も一人だった。


「あ、はい。今、生徒会室に……」

「その必要はなくなったわ。少し、ここで話しましょう」


そう言って、彼女は誰もいない渡り廊下の窓際で足を止めた。

夕日が彼女の完璧な横顔を照らしている。

綺麗だ、と場違いな感想が浮かんだ。


「委員会活動には、興味ないかしら? 生徒会では、常に優秀な人材を求めているの」

「いえ、俺はそういうの、向いてないので……」


緊張で声が上ずる。

心臓がうるさくて、彼女に聞こえてしまうんじゃないかと焦った。


怜香は、ふふ、と小さく笑った。

そして、すっと俺との距離を詰める。

息がかかるほどの距離で、彼女は俺の耳元に唇を寄せた。


「……あなたの声」


囁き声が、鼓膜を直接震わせる。

ぞわ、と全身の肌が粟立った。


「どこかで、聞いたことがあるような気がするわ」


怜香の瞳が、楽しそうに細められる。

獲物を見つけた、捕食者の目だ。


「とても……心地いい声ね、『Yuki』くん?」


最後の名前だけが、ASMRのように、俺の脳に直接響き渡った。

血の気が、引いていく。


なんで。

どうして、この人が。


目の前の完璧な生徒会長が、昨夜の匿名メッセージを送ってきたストーカーと、ゆっくりと重なった。

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