気づいたらASMRで学園カーストのトップになってた
境界セン
第1話
「……で、どう? これ」
放課後のがらんとした教室。
夕日が差し込む窓際で、幼馴染の朝霧詩織(あさぎり しおり)が俺の耳元にぐいっとスマホを突きつけてきた。
「どうって……ただの雨の音だろ」
「ただの、じゃない! 聞いてよ、この水滴がアスファルトに落ちて弾ける音の解像度! やばくない?」
キラキラした目で力説する詩織。
こいつは昔からそうだ。俺の耳がいいことを知っていて、何かと面白い音を聞かせてくる。
「……言われてみれば、確かに。一つ一つの粒がはっきり聞こえる気は、する」
「でしょ!? これ、ASMRって言うんだよ。今、すごい人気なんだから!」
ASMR。
名前くらいは聞いたことがある。耳かきとか、囁き声とか、そういうやつだろ。
「ユキのその耳、絶対にASMR配信者に向いてるって! 神様からのギフトだよ!」
「やめろよ、大げさな」
「大げさじゃない! この星奏学院(せいそうがくいん)は一芸に秀でた生徒が集まる場所なんでしょ? ユキの才能は『音』だよ! 断言する!」
才能、か。
そんな大層なものじゃない。ただ、他の人より少しだけ、音がよく聞こえるだけ。
周りのざわめきの中から、特定の誰かのひそひ話を聞き分けたり、遠くで鳴っているチャイムの音の微妙なズレに気づいたり。
それは時々、俺を疲れさせるだけの、厄介な代物だった。
「ほら、やってみなよ! 機材は私のを貸してあげるから!」
「いや、俺がやっても……」
「いいから!」
半ば強引に、俺は詩織からマイクやら何やらが入った箱を押し付けられた。
その夜。
自室の机の上で、借り物の黒いマイクが静かに存在感を放っていた。
バイノーラルマイク、とか言ったか。人間の頭の形をしていて、両耳の部分に高性能なマイクが埋め込まれている。これで録音すると、まるでその場で聞いているような立体的な音が録れるらしい。
「……本当に、やるのか?」
独り言が、やけに部屋に響く。
どうせ誰も聞かない。詩織への義理立てに、一度だけ。
そう自分に言い聞かせ、俺は配信アプリを立ち上げた。
アカウント名は、"Yuki"。
タイトルは……『眠れない夜のための、雨音。』
ありきたりだ。でも、何も思いつかなかった。
配信開始ボタンを押す。視聴者数は、もちろんゼロ。
「……あー、こんばんは。Yuki、です」
誰に言うでもなく、呟く。
心臓が少しだけ、うるさい。
マイクの前に、ガラスのコップを置いた。
スポイトで水を吸い上げ、一滴、また一滴と、ゆっくり水面に落としていく。
ぽちゃん……。
ぽつ……ん。
マイクを通してヘッドフォンから聞こえてくる音は、俺がいつも聞いている世界の音とは少し違っていた。
より、生々しく。
より、近く。
まるで、鼓膜のすぐそばで水滴が跳ねているようだ。
面白い、かもしれない。
少しだけ夢中になって、色々な音を試した。
鉛筆で紙に文字を書く、カリカリという音。
古い本のページをそっとめくる、乾いた音。
炭酸水のボトルを開けた時の、弾けるような音。
気づけば、一時間が経っていた。
視聴者数は、最後までゼロのまま。
「……だよな」
自嘲気味に笑って、配信終了ボタンに指を伸ばした。
その、瞬間だった。
画面の端に、ぽん、と通知が浮かび上がる。
『匿名のユーザーが、あなたに10,000円のスーパーチャットを送信しました』
「……は?」
固まった。
いち、じゅう、ひゃく……一万円?
間違いだろ?
震える指で、コメント欄を確認する。
たった一件だけ、新しい書き込みがあった。
『私の心を救ってくれて、ありがとう。必ず、あなたを見つけ出すわ』
背筋が、ぞくりと粟立った。
救う? 見つけ出す?
一体、誰が? 何のために?
恐怖と、それ以上に奇妙な高揚感が、俺の心臓を鷲掴みにしていた。
◇
同時刻。星奏学院、生徒会室。
広大な部屋の中央に置かれたマホガニーのデスクで、藤堂怜香(とうどう れいか)はゆっくりとヘッドフォンを外した。
完璧に整えられた黒髪が、さらりと肩に落ちる。
「……見つけた」
彼女の白い頬は、ほんのりと赤く染まっていた。
ここ数ヶ月、原因不明の不眠に悩まされ、あらゆる医者やセラピーを試しても効果はなかった。
学園の頂点に立つ生徒会長としてのプレッシャー。誰にも見せることのできない、完璧な仮面の下の疲労。
それが、たった今。
偶然開いた無名の配信者の、拙いけれど、どこまでも純粋で優しい音によって、嘘のように溶かされていったのだ。
『Yuki』
怜香は唇の端を吊り上げ、恍惚とした表情でその名前を呟く。
「あなたを、私のものにする」
その声は、支配者のそれだった。
学園の誰一人として知らない、生徒会長の秘密の顔。
彼女のパソコンの画面には、"Yuki"のプロフィールページが開かれている。
アイコンもなければ、自己紹介もない、空っぽのページ。
だが、怜香の瞳は、獲物を見つけた狩人のように、鋭く輝いていた。
この学園のネットワークを統括する生徒会長にとって、匿名の配信者一人を探し出すことなど、造作もないことだったからだ。
画面に映る『視聴者数:1』の文字は、まだ消えていなかった。
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