第3話
「……心地いい声ね、『Yuki』くん?」
耳元で囁かれたその言葉が、毒のように全身に回る。
目の前の完璧な生徒会長、藤堂怜香が、俺の秘密を知っている。
その事実が、思考を真っ白にさせた。
「な、んで……」
「あら、なんのことかしら?」
怜香はすっと身を離すと、何も知らなかったかのように可憐に首を傾げた。
その瞳の奥が、愉悦に細められているのを、俺は見逃さなかった。
この人は、俺の反応を、楽しんでいる。
「生徒会への勧誘、前向きに検討しておいてね。それでは」
優雅に一礼し、彼女は去っていく。
その後ろ姿が見えなくなるまで、俺は身じろぎ一つできなかった。
どうする?
どうすればいい?
配信のこと、問い詰めるべきだったのか? いや、無理だ。あの人の前では、蛇に睨まれた蛙だ。
逃げたい。
でも、どこへ?
◇
自室のベッドに倒れ込み、天井を見つめる。
恐怖が、心臓を冷たく締め付ける。
藤堂怜香に正体がバレている。彼女が何を考えているのか、全くわからない。
学園の女王、響木凛には宣戦布告された。
もう、やめよう。
配信なんて、二度とやるもんか。
それが、一番安全で、賢明な判断だ。
……なのに。
『私の心を救ってくれて、ありがとう』
昨夜の、あのメッセージが頭から離れない。
高額なスーパーチャット。
それは、俺の作った音が、確かに誰かの心に届いた証だった。
生まれて初めてだった。
自分のこの耳が、この音への感覚が、誰かの役に立ったのは。
誰かに、必要とされたのは。
「……くそ」
ベッドから身を起こし、机の上の黒いバイノーラルマイクを睨みつける。
怖い。面倒なことになるのは、もう確定している。
でも。
あの音を作っている時の、不思議な高揚感。
ヘッドフォンの中で、世界が再構築されていくような、あの感覚。
「……もう、一回だけ」
誰に言うでもなく、呟いた。
怜香のことも、凛のことも、今は考えない。
ただ、音だけに集中する。
今夜も眠れない、どこかの誰かのために。
配信アプリを立ち上げ、タイトルを打ち込む。
『おやすみ前の、耳かきと囁き』
配信開始。
カウンターが、すぐに『3』になった。
その中に、あの人がいるのだろうか。
ごくりと喉が鳴る。
俺はヘッドフォンをつけ、マイクに向かって、そっと息を吐きかけた。
「……こんばんは。Yuki、です」
「今夜は……少しだけ、あなたの夜の、お手伝いをさせてください」
声が、震えないように。
ゆっくりと、丁寧に。
「まずは……耳の周りから。綺麗にしていきますね」
小箱から、ふわふわの羽毛がついた梵天(ぼんてん)を取り出す。
それを、マイクのシリコン製の耳に、そっと触れさせた。
―――フワ……サワサワ……フワ……
ヘッドフォンの中で、羽毛が肌を撫でる、くすぐったい音が広がる。
まるで、本当に自分の耳を撫でられているような……。
「……気持ち、いいですか?」
「次は、中を綺麗にしましょうね。……動かないでください」
今度は、竹製の耳かきを手に取る。
先端を、ゆっくりとマイクの耳の穴へ。
―――カリ……コリ……カリカリ……
小さな音を立てながら、内壁を優しく掻いていく。
時々、わざと息を漏らす。
その吐息すら、マイクは拾って、生々しい音に変える。
「……ん、ちょっと……くすぐったいかな?」
「大丈夫。……すぐに、気持ちよくなりますから」
自分でも、どうかしていると思う。
まるで、目の前に本当に誰かがいるかのように、言葉を紡いでしまう。
「……あ、ここに。大きいの、ありますね」
「じっとしてて。……うん、もう少し……」
―――ゴソッ……カリッ……!
「……取れましたよ。……ふぅ。すっきり、しましたか?」
配信に、夢中になっていた。
視聴者の数も、コメントも、もう目に入らない。
ただ、最高の音を、届けることだけを考えていた。
◇
【怜香side】
生徒会室。
残務を片付ける手は、とっくに止まっていた。
『……気持ち、いいですか?』
イヤホンから流れてくる、彼の声。
水瀬雪。
昼間に見た、あの怯えた子犬のような瞳。
それが、今はどうだ。
この、甘く、心を蕩かすような声で、私に囁きかけてくる。
―――カリ……コリ……カリカリ……
耳かきの音に、全身の力が抜けていく。
何日も、まともに眠れていなかった。
常に張り詰めていた緊張の糸が、彼の音と声で、ぷつり、ぷつりと切られていく。
完璧な生徒会長、藤堂怜香の仮面が、いとも簡単に剥がされていく。
「……んっ」
思わず、小さな声が漏れた。
頬が熱い。
体が、彼の音を、もっと欲しがっている。
『……取れましたよ。……ふぅ。すっきり、しましたか?』
優しい、問いかけ。
まるで、私のために言ってくれているかのよう。
「……ええ。すっきり、したわ」
誰もいない部屋で、私は答える。
これは、ただの癒やしじゃない。
もっと、危険なものだ。
この音は、この声は、私を支配する。
抗えない。抗う気も、もうない。
彼の音がないと、もう、眠れない。
彼がいないと、私は、私でいられなくなる。
意識が、ゆっくりと沈んでいく。
最後に聞こえたのは、彼の優しい、おやすみの囁きだった。
◇
【ユキside】
一時間の配信を終え、俺はぐったりと椅子に背中を預けた。
心地よい疲労感だった。
ちらりとコメント欄を見ると、『神回』『耳が幸せ』『秒で寝れる』といった賞賛の嵐。
その時、また、あの通知が画面に現れた。
『匿名のユーザーが、あなたに30,000円のスーパーチャットを送信しました』
「さ、三万……!?」
思わず声が出た。
メッセージも、添えられている。
『今夜も、ありがとう。あなたの音がないと、もう眠れないみたい。……次は、どんな音で私を気持ちよくしてくれるのかしら?』
妖艶さを帯びたその文章に、背筋が凍る。
送り主は、間違いなくあの人だ。
藤堂怜香。
彼女は、俺の音に、完全に「落ちて」いる。
それは、喜ぶべきことなのか? それとも……。
頭が混乱する中、スマホが、ぶぶっ、と短く震えた。
スーパーチャットとは別の通知。
学内SNSの、ダイレクトメッセージ。
見慣れない名前からの通知に、嫌な予感が、胸をよぎる。
震える指で、そのメッセージを開くと。
『響木凛 / "Rin-Rin"』
その名前が表示されていた。
『ちょっと話があるんだけど。明日の放課後、第3音楽室に来てくれる? 二人きりで』
生徒会長からの甘い執着。
そして今度は、学園の女王からの、二人きりの呼び出し。
俺の平穏な日常は、もうどこにもなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます