第3話

「……心地いい声ね、『Yuki』くん?」


耳元で囁かれたその言葉が、毒のように全身に回る。

目の前の完璧な生徒会長、藤堂怜香が、俺の秘密を知っている。

その事実が、思考を真っ白にさせた。


「な、んで……」

「あら、なんのことかしら?」


怜香はすっと身を離すと、何も知らなかったかのように可憐に首を傾げた。

その瞳の奥が、愉悦に細められているのを、俺は見逃さなかった。

この人は、俺の反応を、楽しんでいる。


「生徒会への勧誘、前向きに検討しておいてね。それでは」


優雅に一礼し、彼女は去っていく。

その後ろ姿が見えなくなるまで、俺は身じろぎ一つできなかった。


どうする?

どうすればいい?

配信のこと、問い詰めるべきだったのか? いや、無理だ。あの人の前では、蛇に睨まれた蛙だ。


逃げたい。

でも、どこへ?



自室のベッドに倒れ込み、天井を見つめる。


恐怖が、心臓を冷たく締め付ける。

藤堂怜香に正体がバレている。彼女が何を考えているのか、全くわからない。

学園の女王、響木凛には宣戦布告された。


もう、やめよう。

配信なんて、二度とやるもんか。

それが、一番安全で、賢明な判断だ。


……なのに。


『私の心を救ってくれて、ありがとう』


昨夜の、あのメッセージが頭から離れない。

高額なスーパーチャット。

それは、俺の作った音が、確かに誰かの心に届いた証だった。


生まれて初めてだった。

自分のこの耳が、この音への感覚が、誰かの役に立ったのは。

誰かに、必要とされたのは。


「……くそ」


ベッドから身を起こし、机の上の黒いバイノーラルマイクを睨みつける。

怖い。面倒なことになるのは、もう確定している。


でも。


あの音を作っている時の、不思議な高揚感。

ヘッドフォンの中で、世界が再構築されていくような、あの感覚。


「……もう、一回だけ」


誰に言うでもなく、呟いた。

怜香のことも、凛のことも、今は考えない。

ただ、音だけに集中する。

今夜も眠れない、どこかの誰かのために。


配信アプリを立ち上げ、タイトルを打ち込む。


『おやすみ前の、耳かきと囁き』


配信開始。

カウンターが、すぐに『3』になった。

その中に、あの人がいるのだろうか。

ごくりと喉が鳴る。


俺はヘッドフォンをつけ、マイクに向かって、そっと息を吐きかけた。


「……こんばんは。Yuki、です」

「今夜は……少しだけ、あなたの夜の、お手伝いをさせてください」


声が、震えないように。

ゆっくりと、丁寧に。


「まずは……耳の周りから。綺麗にしていきますね」


小箱から、ふわふわの羽毛がついた梵天(ぼんてん)を取り出す。

それを、マイクのシリコン製の耳に、そっと触れさせた。


―――フワ……サワサワ……フワ……


ヘッドフォンの中で、羽毛が肌を撫でる、くすぐったい音が広がる。

まるで、本当に自分の耳を撫でられているような……。


「……気持ち、いいですか?」

「次は、中を綺麗にしましょうね。……動かないでください」


今度は、竹製の耳かきを手に取る。

先端を、ゆっくりとマイクの耳の穴へ。


―――カリ……コリ……カリカリ……


小さな音を立てながら、内壁を優しく掻いていく。

時々、わざと息を漏らす。

その吐息すら、マイクは拾って、生々しい音に変える。


「……ん、ちょっと……くすぐったいかな?」

「大丈夫。……すぐに、気持ちよくなりますから」


自分でも、どうかしていると思う。

まるで、目の前に本当に誰かがいるかのように、言葉を紡いでしまう。


「……あ、ここに。大きいの、ありますね」

「じっとしてて。……うん、もう少し……」


―――ゴソッ……カリッ……!


「……取れましたよ。……ふぅ。すっきり、しましたか?」


配信に、夢中になっていた。

視聴者の数も、コメントも、もう目に入らない。

ただ、最高の音を、届けることだけを考えていた。



【怜香side】


生徒会室。

残務を片付ける手は、とっくに止まっていた。


『……気持ち、いいですか?』


イヤホンから流れてくる、彼の声。

水瀬雪。

昼間に見た、あの怯えた子犬のような瞳。

それが、今はどうだ。

この、甘く、心を蕩かすような声で、私に囁きかけてくる。


―――カリ……コリ……カリカリ……


耳かきの音に、全身の力が抜けていく。

何日も、まともに眠れていなかった。

常に張り詰めていた緊張の糸が、彼の音と声で、ぷつり、ぷつりと切られていく。

完璧な生徒会長、藤堂怜香の仮面が、いとも簡単に剥がされていく。


「……んっ」


思わず、小さな声が漏れた。

頬が熱い。

体が、彼の音を、もっと欲しがっている。


『……取れましたよ。……ふぅ。すっきり、しましたか?』


優しい、問いかけ。

まるで、私のために言ってくれているかのよう。


「……ええ。すっきり、したわ」


誰もいない部屋で、私は答える。

これは、ただの癒やしじゃない。

もっと、危険なものだ。

この音は、この声は、私を支配する。

抗えない。抗う気も、もうない。


彼の音がないと、もう、眠れない。

彼がいないと、私は、私でいられなくなる。


意識が、ゆっくりと沈んでいく。

最後に聞こえたのは、彼の優しい、おやすみの囁きだった。



【ユキside】


一時間の配信を終え、俺はぐったりと椅子に背中を預けた。

心地よい疲労感だった。

ちらりとコメント欄を見ると、『神回』『耳が幸せ』『秒で寝れる』といった賞賛の嵐。


その時、また、あの通知が画面に現れた。


『匿名のユーザーが、あなたに30,000円のスーパーチャットを送信しました』


「さ、三万……!?」


思わず声が出た。

メッセージも、添えられている。


『今夜も、ありがとう。あなたの音がないと、もう眠れないみたい。……次は、どんな音で私を気持ちよくしてくれるのかしら?』


妖艶さを帯びたその文章に、背筋が凍る。

送り主は、間違いなくあの人だ。

藤堂怜香。

彼女は、俺の音に、完全に「落ちて」いる。

それは、喜ぶべきことなのか? それとも……。


頭が混乱する中、スマホが、ぶぶっ、と短く震えた。

スーパーチャットとは別の通知。


学内SNSの、ダイレクトメッセージ。


見慣れない名前からの通知に、嫌な予感が、胸をよぎる。

震える指で、そのメッセージを開くと。


『響木凛 / "Rin-Rin"』


その名前が表示されていた。


『ちょっと話があるんだけど。明日の放課後、第3音楽室に来てくれる? 二人きりで』


生徒会長からの甘い執着。

そして今度は、学園の女王からの、二人きりの呼び出し。


俺の平穏な日常は、もうどこにもなかった。

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