第四章:時計の音と風の音
朝の陽ざしが、細いカーテンの隙間から差し込んでいた。
八時ちょうど、平屋の門が開き、静かに掃き掃除をする男の姿がある。
水野という名のその男は、十年前に定年を迎え、今では一人暮らしをしている。
ほうきの音が、道端に淡く響く。
落ち葉を集める動作に、無駄はないが急ぎもない。
郵便受けをのぞき、届いていたのは市報とチラシ。
それらをそっと手に取り、鉢植えに水をやると、静かに室内へ戻り、仏壇に線香をあげる。
ここまでは、彼の「朝」という日課だ。毎日欠かすことはない。
まるで体に染みついたような動きだった。
午後になると、部屋の一角にある木製の椅子に腰を下ろす。
テレビはつけない。ラジオも鳴らない。
そこにあるのは、壁に掛かった大きな振り子時計の音だけだ。
カチ、カチ、カチ、カチ——。
彼は昔、技術の教師をしていた。
機械や工具の扱いに詳しく、部品を手に取る生徒たちの顔を、今でもよく思い出す。
けれど、教え子の多くは町を離れ、音信はほとんど絶えた。
連絡のないことは、皆が元気にやっている証拠だと、自分に言い聞かせている。
夕方近く、散歩に出かける。
町の端にある公園をぐるりと歩くのが、いつものコースだ。
途中、顔見知りの人や犬に挨拶を交わし、時には通りすがりの中学生に「こんにちは」と言われることもある。
その一言で、一日分の空白が、少しだけ埋まったように感じられる。
帰宅すると、郵便受けに一通の手紙が入っていた。差出人のない封筒。
中には、小さな折り鶴と、たった一言だけ書かれた紙が入っていた。
「先生、あの時のおかげで、今でも工具が好きです。」
筆跡には覚えがなかったが、彼はそれを何度も読み返した。
紙を丁寧に畳み、小箱に入れ、棚の奥にそっとしまう。
夜、窓の外に風が吹く。
振り子時計の音が、それと交互に響いた。
彼は椅子に座ったまま、ふと遠くを見つめる。
人は年を取るほど、何かを「受け取る」ことに鈍くなる。
だが、それでも今日の手紙は、風の中で彼に、はっきりと何かを渡していった。
坂の上から町を見ていた男は、ふとその家の灯りが、心なしか柔らかく見えることに気づいた。
あの静かな窓辺にも、きっと今、誰かの記憶がそっと灯っている
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