第五章:帰ってきた青年Ⅰ
その青年がこの町に戻ってきたのは、春先のことだった。
大きなスーツケースを転がしながら、駅から坂道をゆっくりと上ってきた彼の姿に、誰も気づく者はいなかった。
町はいつもと変わらぬ顔をしていて、彼の帰郷を特別なこととは受け止めていなかった。
だが、彼の心には、この風景が胸を打つほど懐かしかった。
青年――名を佐伯涼といった。
東京の大学を出て就職したが、数年で心を壊してしまった。
会社を辞め、アパートを引き払い、何も考えずにこの町へ戻ってきたのだった。
両親は数年前に離婚しており、実家は空き家になっていた。
久しぶりに開けた玄関の匂いは、埃と、わずかに残る母の香水の香りだった。
それから数日後、涼は町を歩いた。
かつて通っていた小学校の前を通り、閉店したままの文具店を見上げ、川沿いの遊歩道を歩いた。
すれ違う人のほとんどは、彼を判別できなかった。けれど、彼は彼らを覚えていた。
子どもの頃の視点が、次々によみがえってきた。
そんなある日、ふと坂の上のベンチに座った。
眼下に広がる町の灯りが、ゆっくりとともり始める時間だった。
そこで彼は初めて、「誰か」がこの風景を見ていたことに気がついた。
ベンチには座り跡があり、地面には何度も踏みしめられた痕。
ここに日々、誰かが通っていたのだ。
その人もまた、町を“外”から眺めていたのだろうか。
町の中に入ることなく、灯りの一つひとつを見守るように。
涼は思わずスマートフォンを取り出し、写真を撮った。
夕暮れの町は美しく、静かで、どこか寂しげだった。
そして確かに、自分の「今」がそこに映っていた。
帰宅すると、久しぶりにノートを開いた。文字を書くのは何年ぶりだろう。
文章のかたちにならなくてもいい。ただ、今の気持ちを記しておきたいと思った。
その夜、坂の上にはもう誰の姿もなかった。
涼はそのベンチに、一輪の白い花を置いた。
それは、誰かに宛てた花というより、町そのものへの「ただいま」の代わりだった。
そしてふと、遠くの窓に灯る光の中に、かすかな「帰る場所」の輪郭を見た気がした。
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