第三章:ひとり暮らしの女教師
午後六時、マンションのドアが静かに開く。
中年の女教師・本宮は、いつもと同じようにローファーを揃えて脱ぎ、スーツの上着を丁寧にハンガーへ掛けた。
部屋は一人暮らしらしく、無駄な物が少ない。観葉植物や木製の棚が、生活に柔らかい輪郭を与えている。
台所でお湯を沸かしながら、彼女は窓際のカーテンを少し開けた。
坂の上に、ひとり佇む男の影がうっすらと見える。
彼女はその存在に気づいていた——気にしているわけではないが、「毎日いるな」と、なんとなく思っている。それだけのことだ。
お湯が沸いた。
紅茶を一杯作り、彼女は窓辺の椅子に腰掛ける。かすかに流れるのはバッハの曲。
夜の入り口で、音楽が部屋の隅々に滲んでいく。
今日の授業をふり返る。
ちょっとした生徒の言葉に、なぜか胸がすっと温かくなった。
反抗期の子の、ふとした謝罪。目をそらしながら差し出されたノート。
そういう些細な瞬間が、教師という仕事をやめられない理由だ。
けれど、彼女にも空白の時間がある。
夜七時を過ぎる頃、紅茶のカップを持つ手が少しだけ止まった。
壁の時計の針が「その時間」を指したからだ。
十年前までは、あの時間に誰かの帰宅を知らせる音があった。
玄関の鍵が開く音。「ただいま」と言う声。食卓の、もう一つの皿。
それが今は、静かすぎる。
けれど、悲しいわけではない。
彼女は音楽の音量を少しだけ上げ、紅茶の最後の一口を飲み干す。
そして立ち上がり、また一日を丁寧に片づけるように、カップを洗い、カーテンを閉じた。
「また明日」とつぶやき、部屋の灯を一つだけ残して、書斎へ向かう。
窓の明かりが消える少し前、坂の上の男はそれに気づき、ほんの少しだけ首を傾けた。
その光もまた、彼の中では「誰かの暮らし」として、確かに灯っていた。
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