第6章 夜明けと決裂

 霧深きロンドン、旧王立博物館の地下研究棟。

 そこに、モリアーティ教授は“新世界”の心臓部を築いていた。


 巨大な蒸気装置と神経接続装置、試験管の中で蠢く“再構成された生命”。

 それらを監視する無人の目――無数の光学センサー。

 そして中央の演算機に接続された装置には、かつて人であった者の“脳”が浮かんでいた。


 「怪異とは、恐れではない。可能性だ」

 モリアーティは呟いた。

 「人類の進化は、意識の転移と肉体の再定義により実現する。

  それを拒むのは、感情という“ノイズ”にすぎん」



 その瞬間、警報が鳴った。


 ガラスを砕いて侵入したのは、白銀の剣を帯びたドラキュラ伯爵だった。

 その背後には、包帯を巻いたミイラ、獣の咆哮をたたえた狼男、そして――


 「やあ、教授。

  講義室を間違えたようだな」


 ホームズが、煙草を咥えたまま現れた。


 「……来たか。予測通りだ」

 モリアーティは静かに頷いた。

 「だが、間に合わなかったな。装置はすでに起動している。

  怪異の遺伝子と人類の神経構造を統合する――“融合の種”がばら撒かれるのだ」


 「その前に、止めさせてもらう」

 ワトソンが銃を構えた。


 ドラキュラが進み出た。

 「我々は、人類を“獲物”としたこともある。だが今、誰かの操り人形になる気はない」


 「なるほど」

 モリアーティは手を挙げる。

 すると天井から液状の影が落ちてきた――


 透明人間グリフィンだった。


 だが彼の姿は、かすかに“形”を伴っていた。

 歪んだ皮膚、脈打つ網膜、再構成された輪郭。

 彼は完全な“不可視”ではなくなっていた。


 「グリフィン……お前までもが裏切るのか」

 モリアーティの声が冷たくなる。


 「裏切ったのはあなたの方だ」

 グリフィンの声が、機械のように響いた。


 「私は“透明になることで自由になれる”と思っていた。

  だが、本当に自由になるには……“誰かと共に在る”必要があったのだ」


 そして、彼は装置に向けて放った。

 小さな瓶――中には白濁した液体、“自己融解ウイルス”。


 システムが一瞬で凍りつく。


 「……グリフィン!」

 モリアーティが叫ぶも、彼の姿はすでに霧の中に消えていた。



 装置の機能は完全に停止した。


 ガラス管が爆ぜ、ケーブルがスパークを吐き、液体の記憶を宿す脳は沈黙する。

 中央端末の表示は、たった一語のまま凍結されたままだった。



 《融合:拒絶》



 「……終わったな」

 ホームズは煙草を指で弾き、灰を床に落とした。


 「終わってなどいないさ」

 モリアーティはゆっくりと歩み寄る。

 だがその足取りには、かつての威厳も狡猾さもなかった。

 まるで何かを諦め、何かを信じていた者が、裏切られたまま彷徨っているようだった。


 「君たちは、“未来”を拒んだだけだ。

  やがてこの選択が、人類を破滅へと導くだろう」


 「ならば、我々はその責任を共に負うだけだ」

 ワトソンが銃を下ろし、静かに言った。

 「あなた一人に決めさせるわけにはいかない」


 モリアーティは笑った。

 かつての皮肉ではない。

 哀れみと、諦念と、ある種の安堵を孕んだ微笑みだった。


 「……さすがだ、ジョン・ワトソン」


 その言葉を最後に、彼は拘束された。


 残された研究施設に、しばしの沈黙が訪れる。


 誰もが、その場に立ち尽くしていた。


 そして、ドラキュラが一歩前へ出る。


 「我々は、連盟を解散する」

 彼は言った。

 「怪異たちが人類の中に生きる時代は、まだ来ていない。

  それぞれが、それぞれの闇に戻ろう」


 ミイラは沈黙のうちに頷き、狼男は一度だけ遠吠えをあげ、消えていった。

 アダムは、手帳の一頁をちぎって残した。“赦し”という一言だけが記されていた。


 最後に、ドラキュラが言う。


 「ホームズ――我々が再び相まみえることがあるなら、それは“変わった世界”の中だろう。

  人の名を騙ったこの名も、今日限りにする」


 「だが、あんたの本質は変わらん。伯爵」

 ホームズが返す。


 ドラキュラは口元を吊り上げ、霧と共にその場を去った。


 そして。


 「グリフィンの姿は?」

 ワトソンが周囲を見回す。


 誰も答えなかった。


 グリフィンは、どこかにいたのかもしれない。

 誰の背後に、誰の手元に、あるいは記憶の狭間に。


 “姿を見せない”という自由を選びながらも、彼は間違いなく“ここにいた”。


 ホームズは言った。


 「――そして、霧の奥でまた新しい“怪異”が生まれている。

  それを誰が名付けるかは、我々ではないのかもしれないな」


 夜が明ける。


 ロンドンの霧は、その日、いつもより静かだった。

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