第5章 教授の最後の講義
霧の夜、ロンドン・キングスカレッジの講堂跡。
廃棄されたままの古びた講義室に、ホームズはひとり足を踏み入れた。
天井からは剥がれた石膏が垂れ下がり、床には粉塵が積もっていた。
だが、中央の黒板だけは異様なほど整然と磨かれていた。
そこには、細密に描かれた数式と幾何学図形――そして、“進化の紋章”。
「やはり……ここか」
ホームズは静かに呟いた。
彼の背後から、影が一つ、音もなく歩み寄ってきた。
「この講堂、気に入っていたのですよ、かつては」
響いたのは、冷たくも滑らかな声。
どこか懐かしさすら感じさせる抑揚だった。
「学生たちは皆、愚かだった。
だが、数式の中にのみ真実を見出そうとした彼らの目だけは、まだ曇っていなかった」
「……教授」
ホームズは振り返らずに言った。
「生きていたとは思わなかった」
「死んだとも限らなかったでしょう?」
モリアーティ教授が姿を現した。
かつての威厳はそのままに、だがその顔にはかすかな傷跡が残っていた。ライヘンバッハの滝での死闘――あの記憶の名残。
「私は人類を“進化”させたかった。それは今も変わらない」
彼は講義台の前に立ち、ゆっくりと手を広げた。
「だが、もはや人間という枠に可能性はない。
怪異こそが次代の構成因子だ。彼らはすでに“限界を越えて”いる。
私はその“設計図”を書き換える。すべての存在の在り方を、だ」
「連盟を利用するつもりか」
ホームズの声は鋭くなった。
「連盟など幻想にすぎない。
連帯など不安と理想の上にしか成り立たない。
彼らはやがて裏切り、そして殺し合う。
その“火種”を与えたのは……グリフィンだ」
ホームズの目が細まる。
「では……お前が、彼を透明人間に?」
モリアーティは薄く笑った。
「彼は“志願者”でしたよ。姿を捨てることで、倫理をも捨てられる。
道徳の“拘束”がなくなったとき、純粋な理性がいかに暴走するか……私は観察したかったのです」
ホームズは沈黙した。
怒りではない、悲しみにも似た深い絶望が胸を満たす。
「お前は……どこまで行くつもりだ」
「理性の果てまで」
モリアーティは即答した。
「そしてその先で、人間と怪物の境界を消し去る。
全てが“再定義”される日が来る。
そのとき、貴方はどこに立っているのです? 名探偵」
ホームズは静かに歩を進めた。
「私はただ、“観察者”でいるつもりはない。
私はまだ、“選ぶ者”でありたい。希望のある方を、だ」
そして、彼は黒板に描かれた“進化の紋章”を拳で叩き消した。
そのころ、スイス・ヴァレーゼの古城では、モンスター連盟の主要メンバーが集っていた。
「……モリアーティが動き始めた」
ワトソンの報せに、会議室の空気が冷たく沈む。
ドラキュラが口を開いた。
「“教授”の名は、かつてこの地でもささやかれていた。
人間の顔をしながら、我々よりも怪異に近い心を持つ者……」
アダム――かつての“怪物”フランケンシュタインの創造物――は静かに頷いた。
「私は会ったことがある。遠い昔、スイスで。
彼の語る“未来”には希望も絶望もなかった。ただ冷たい数式だけがあった」
「奴はグリフィンを操っていたのか?」
狼男が低く唸る。
「そうではない」
奥の影から声が返った。
姿を現したのは、グリフィン本人だった。
「操られていたのではない。
私は、モリアーティの提案に“同意”していたのだ。
かつては、な」
透明な存在が椅子に腰掛けるたび、誰かがそっと息を呑んだ。
「姿を消すことが、自由だと思った。
だが……“孤独”もまた可視化された。
彼は私に“進化”を見せたが、それは“人でなくなる”という道だった」
「では、今は違うと?」
ドラキュラが問う。
グリフィンはしばし沈黙し、そして言った。
「おそらく、今の私は“怪物”ですらない。
私が見ているのは、人間でも怪異でもない。
……“何者でもない者”の行きつく場所だ」
会議室の天井を雷鳴が揺らした。
ワトソンが立ち上がる。
「モリアーティは、すでに動いている。
あの男は、闇の連盟を内部から瓦解させるつもりだ。
分裂を誘い、恐怖を煽り、最後には我々の存在を“兵器”として使うつもりだ」
「ならば、我々は一つにまとまらねばならぬ」
ドラキュラは立ち上がった。
「過去の確執を超えて――今、モンスターたちは“選ばれる側”であってはならぬ。
我らが、“選ぶ側”に立つのだ」
その言葉に、静かに頷く者たち。
「モリアーティとの戦いは避けられぬ」
ワトソンが言った。
「だが、これは人類と怪異の未来を賭けた戦いだ。
我々が何者であるか、それを“示す”戦いなんだ」
最後に、誰かが言った。
「これは、教授にとって最後の“講義”となるだろう」
そして夜が明ける前に、闇の連盟の面々はそれぞれの場所へと散っていった。
来るべき“決戦の夜”に備えて。
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