第9話

 文化祭が終わって、学校は少しだけ、静けさを取り戻していた。


 体育館の片付け、装飾の撤去、廊下に残るスプレーの匂い――

 浮き足立っていた空気が、ゆるやかに日常へと戻っていく。


 だけど、俺の心は、以前よりもずっと――ざわついていた。


 


「文化祭、楽しかったよね。ね、真斗くん?」


 朝、昇降口で声をかけてきたのはこはるだった。


 彼女はいつものように微笑んでいたけど、

 その目元は、ほんの少しだけ、張り詰めているように見えた。


「……うん。いろいろあったけど、楽しかった」


「そっか……ならよかった」


 その言葉とともに、彼女は俺の脇をすり抜けて教室へ。


 なんでもない日常会話のはずなのに――

 なぜか、心に引っかかるものがあった。


 


 昼休み。図書室。


 俺が本を開いていると、隣の席にひょいと座ったのは澪だった。


「……こんにちは」


「お、おう。珍しいな、ここで昼食?」


「いえ。ここであなたと会えると思って、来ただけよ」


 そう言って、机にそっと小さなチョコレートを置いた。


「文化祭、お疲れさま。ささやかな、差し入れ」


「ありがとな……」


 少しだけ沈黙が流れて――澪が口を開く。


「……相原くん。ひとつだけ、聞いてもいい?」


「なに?」


「あなたは、私たちの中で――

 誰かを“選ぶ”つもりが、あるの?」


 


 静かだった図書室の空気が、少しだけ重くなった。


 選ぶ。


 そんなこと、考えないようにしていた。

 いや、考えたくなかったのかもしれない。


 3人とも、大切で、優しくて、まっすぐで――

「理想の彼女」なんて言葉じゃ収まらないほど、魅力的だった。


 でも、俺が選んでしまえば――

 残る誰かが、選ばれないことになる。


 それが怖くて、答えを出せずにいた。


「……分からない。まだ、決められない」


 俺の言葉に、澪はふっと目を伏せた。


「……正直ね。私は、“選ばれたい”って思ってるわ。

 でもそれ以上に、あなたが誰かを“選んで苦しむ”のが、見ていられないの」


 彼女はそう言い残して、静かに図書室を去っていった。


 


 放課後。教室。


 最後に残っていたのは、俺と――朱莉だった。


 窓辺に座る彼女は、いつものように元気な笑顔ではなく、少し疲れた横顔をしていた。


「……さーて、今日は何して帰ろっか。どこか寄り道する?」


「朱莉……」


「ううん、なんでもない。

 たださ、やっぱ思っちゃうんだよね」


「なにを?」


「“理想の彼氏”って、ほんとは誰の理想なんだろうな、って」


 その声は、静かで――切なかった。


「私ね、最初はちょっと面白そうって思ってたの。

 “陰キャ男子をプロデュースしてモテさせたらウケそう!”って。

 でも、真斗と関わってるうちに……

 本気で惹かれてたの、私の方だったんだなって、気づいちゃってさ」


「朱莉……」


「私が見てる“理想”はね、きっと他の誰とも違う。

 ちょっと不器用で、素直じゃなくて、

 でも人のために行動できる、そういう真斗なんだよ」


 彼女は立ち上がると、窓の外を指差した。


「ほら、夕焼けきれいだよ。

 ……いつか、答えが出たときにさ。

 その時は、私の名前を呼んでくれたら、すっ飛んでくるから」


 冗談っぽく笑いながら、そう言って朱莉は帰っていった。


 俺は、教室の窓から夕日を眺めながら――

 自分の心の中に、ひとつも正解がないことに気づいた。


 


 そのときだった。


 昇降口の前――下駄箱の向こうから、

 俺をじっと見つめる、見慣れない女子の姿があった。


 長い黒髪、無表情。制服のスカートは膝下でぴしりと整っている。

 目立たないのに、妙に記憶に残る顔。


 俺が近づこうとしたその瞬間、彼女は静かに口を開いた。


「相原真斗くん。……あなた、“覚えてない”よね?」


「え……?」


「私のこと。……忘れたの?中一のとき、図書室で――」


 その言葉を最後まで聞く前に、彼女はくるりと背を向け、校舎の外へと歩いていった。


 


 ――ここにきて、新たなヒロインが現れた。


 名前も分からない彼女は、何者なのか。

 俺が“覚えていない”という過去に、なにがあったのか。


 そして、今のこの“選べない想い”にどう向き合えばいいのか。


 


 文化祭が終わっても、俺の“モテ期”は――

 まだ、終わる気配を見せなかった。

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