第10話

 あの日以来、

 俺の中に――ひとつの疑問が、静かに居座り続けていた。


「あの子は、誰だったのか?」


 文化祭が終わり、3人との関係が少しずつ変化し始めていた頃。

 夕暮れの昇降口で出会った、長い黒髪の少女。


 彼女の名前も知らない。

 けれど確かに、俺の過去を知っていた。


「覚えてないよね? 図書室で――」


 その言葉が、ずっと胸に引っかかっていた。


 


 そして――翌日。


 図書室。放課後。

 静かな空気の中で、俺は待っていた。


 昨日まで誰とも一緒じゃなかったはずの空間。

 だけど、今日はなぜか“来る気がした”のだ。


 ……そして、その予感は当たっていた。


「やっぱり、ここに来ると思った」


 奥の窓際――そこにいたのは、あの少女だった。


 長い黒髪、伏せたまつげ、制服の襟をきちんと正したその姿。


「……君は、誰?」


 俺の問いに、彼女は静かに顔を上げた。


白瀬栞しらせしおり

 この春に転校してきたけど、目立たないように過ごしてた。……いつもみたいにね」


「俺と、昔会ったって……本当?」


「……中学一年の秋。覚えてない?」


 


 記憶を探る。けれど、なかなか思い出せない。


「その頃の俺、ずっとひとりでいたから」


「そう。私も」


 栞は、すっと目を細める。


「図書室の隅の席。あなたはいつも静かに本を読んでて、

 ある日、私が泣いてたのに気づいた。……本棚の陰で」


「……」


「誰にもバレないようにって、そっと、ハンカチを置いてくれたの。

 言葉もなく。名前も聞かずに」


 ――薄れていた、でも確かにどこかで刻まれていた記憶。


 ハンカチ。泣いている子。

 声もかけられず、ただそっと、渡しただけの。


「あれが、あなたとの最初で最後の会話だった。

 でも私は、ずっと……忘れなかったよ」


 


 静寂。

 図書室の空気が、時間の層を一枚めくったように感じた。


「どうして……今になって?」


「“理想の彼氏”って呼ばれてるの、見てた。

 周りが騒いで、誰かが勝手に憧れて、

 それでもあなたは――変わらなかった」


 栞は、立ち上がって俺の目の前に立つ。


「私は、“憧れ”なんかじゃない。

 ただ――“恩人”に会いたかっただけ」


 その言葉は、どこまでも真っ直ぐだった。


 恋とか、憧れとかじゃない。

 ただ、一人の人間として、感謝を伝えたくて来たのだと。


 だけど。


「でも、気づいたんだ。

 私も、あの時から……少しずつ、あなたのことが――」


 


 そのとき、図書室の扉が開いた。


「……真斗?」


 入ってきたのは、こはるだった。


 制服のまま、部活のトートを下げたまま、

 扉の向こうで、目を見開いて立ち尽くしている。


「……ごめん。なんか、邪魔しちゃった?」


「違う、これは――」


「ううん。いいの」


 栞が先に口を開く。


「綾瀬さん。……私はただ、伝えたいことがあってここに来ただけ。

 真斗くんを奪うつもりなんて、今は……まだ、ない」


“まだ”――

 その一言が、こはるの瞳に火を灯したのを、俺は見逃さなかった。


 


 そして放課後の空。


 教室の窓から、朱莉が空を見上げて言った。


「……あの子が、“最後の刺客”かな?」


 隣で、澪が静かに頷いた。


「ええ。……最も“静かで強い”タイプ。最難関かもしれないわ」


 


 ――こうして、俺の知らなかった“過去の片想い”が、今のラブコメ戦線に参戦した。


 記憶の扉が開いたとき。

“理想の彼氏”としての物語は、もう一段深く進み始める。


 


 そして俺は、自問する。


「俺の“理想の彼女”は、誰なんだろう」

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