第2話-4 涙と原点
開かれたままの参考書。
その無機質な文字の上に、ぽつり、と小さな雫が落ちて、インクを滲ませた。
「……っ」
その日の夜、自分の部屋で机に向かっていた高梨沙耶は、自分が泣いていることに、その時初めて気づいた。参考書の文字を目で追うが、その内容は少しも頭に入ってこない。意識は、窓の外の深い闇と、そこに映る自分の無表情な顔に向けられていた。
公園のブランコで聞いた、親友の声が耳から離れない。
『あんな沙耶を、私はもう見たくない……』
その言葉が引き金だった。
記憶の蓋は容赦なく開かれ、忘れたい光景が奔流となって沙耶の心を蝕んでいく。
――
土砂降りの雨。ぬかるんだピッチが、スパイクに泥となってまとわりつく。ANIMA FCレディースのキャプテンとして挑んだ、全国大会出場をかけたU15最後の試合。後半アディショナルタイム。スコアは、1対1。このままだと、勝負の行方は延長戦に持ち越される。
この雨で、疲労はもはやピークに達し、沙耶の思考を少しづつ麻痺させる。センターバックとして冷静な判断でディフェンスラインを統率してきた沙耶は、もはや気力だけで立っている。
相手のエースが、最後の力を振り絞ってドリブルで仕掛けてくる。ぬかるんだピッチをものともしない、シュートゾーンへの一直線の突進。沙耶の脳内で、瞬時に相手の動きを予測し、自分がやるべきことを導き出す。コースを限定し、利き足ではない左でシュートを打たせる。おそらくそれが、この状況での唯一の正解。
だが、相手の瞳に宿る光が、その方程式を嘲笑うかのように、一瞬強く燃え上がる。
縦への突破を匂わせた身体が、急角度で内側へ切れ込む。
――フェイント!? このピッチコンディションで!?
思考が警鐘を鳴らすより早く、完璧だったはずのディフェンス網に、亀裂が入る。身体が、思考に追いつかない。
まずい、抜かれる――!
衝動的に、足を投げ出す。その、必死に伸ばしたつま先が、ボールではなく、相手の足首にかかる。
スローモーションのように崩れ落ちる相手選手。
そして、世界で一番聞きたくなかった音が、鼓膜を突き破る。
ピーッ、という、無慈悲主審が指さしたのは、ペナルティスポット。
チームメイトたちの、時間が止まったかのような呆然とした顔。
相手ベンチの、地鳴りのような歓声。
私は、そのあとの相手のPKを覚えていない。
気づいたときには、チームメイト全員が地べたにうずくまり、倒れこみ、泣きじゃくっていた。
私は、彼女たちにどんな声をかけたのだろう。キャプテンとして。そして敗戦を決定づけた「戦犯」として…。
——お願い、もう許して。
その試合前夜のミーティングルーム。蒸し返すような熱気の中で、私は円陣の中心に立っている。緊張と期待で上気した仲間たちの顔、顔、顔。その一つ一つを見つめ、私は喉が張り裂けんばかりに叫ぶ。
「明日、絶対に勝とう! 勝って、私たちが全国に行くんだ!」
その言葉が、今の私を絞め殺しにくる。信じてくれた仲間たちの真っ直ぐな瞳が、無数の矢となって突き刺さる。
——あの時の私は、何も知らないんだ…。
秋の新チーム発足の日。沈黙のミーティングルームで、メンバー全員の顔をゆっくりと見渡し、確信に満ちた声で就任のあいさつをする私。私は、自らキャプテン就任を直訴していた。
「新チームのキャプテンとして、精一杯やらせていただきます。目標はもちろん全国。今年こそ、絶対に行きましょう!」
その声に、迷いは一片もない。高らかに響き渡った宣言は、希望そのものだ。
——どうして、キャプテンになんか…。
苦しさに顔を歪めた、その時。記憶の濁流は、予期せず、もっとずっと昔へと遡っていく。
日曜日の、乾いた風が吹くグラウンド。小学五年生の私が、友達に誘われて、初めて地域のサッカー教室に参加した日。
周りは、ほとんど男の子。ぶかぶかのTシャツを着て、緊張で膝が笑っている。案の定、ボールは少しも言うことを聞かない。ドリブルは転がるボールを追いかけるだけ、パスはとんでもない方向へ飛んでいく。
でも――。
ミニゲームが終わった後、私は笑っている。泥だらけの顔で、歯を見せて。心の底から、満面の笑みを浮かべている。
——楽しい。
上手くなりたいとか、誰かに勝ちたいとか、そんな理屈じゃない。ただ、丸いボールを夢中で追いかけること自体が、楽しくて、嬉しくて、仕方がなかったのだ。
はっと我に返る。
窓ガラスに映る自分の顔は、あの頃とは似ても似つかない、こわばった表情をしていた。
その脳裏に、昨日見た光景が鮮やかにフラッシュバックする。
顔面でボールを受けて、それでもムキになって立ち上がる柚木あおい。それを腹を抱えて笑っている、南雲レイナ。
あの二人の、下手くそで、無様で、無防備な笑顔。
それが、泥だらけで笑っていた、小学五年生の自分と、ぴたりと重なる。
そうだ。あの二人も、ただ「楽しい」から、あそこにいるんだ。
勝ち負けも、プレッシャーも、失うものも、まだ何もない。だから、あんな風に笑える。
南雲レイナの言葉が蘇る。
『目指すに決まってんじゃん。てか、私たちが最初の道になるんだから。目指さなきゃ、始まらないでしょ』
何のてらいもない、馬鹿みたいにまっすぐな光。
美咲の涙も、蘇る。
彼女を、もう傷つけたくない。この優しい親友を、自分のエゴに巻き込みたくない。
でも、このまま何もしなければ、自分はきっと、またこの部屋で一人、膝を抱えることになる。
過去の亡霊に苛まれながら。
もう、やめだ。
一人で泣くのは、もうやめる。
あの光の中へ飛び込めば。
失った何かを、あの「楽しさ」を、もう一度見つけられるかもしれない。
「全国大会」という言葉は、呪いになった。でも、その呪いを解くには、もう一度その言葉に向き合うしかない。
沙耶は立ち上がると、クローゼットの奥にしまい込んでいたシューズボックスを、何かの封印を解くように、静かに開いた。
そこには、汗と泥と、夢と希望と絶望・・・、そのすべてが詰め込まれたスパイク。
自分の意志で。
誰かのためじゃない。
もう一度走るために。
その口元が、本当に、ほんの少しだけ、あの頃のように緩んだ。
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