第19話-2 託された祈り

担架に乗せられたレイナの姿が、ゆっくりとフィールドサイドへと消えていく。

その姿に、スタンドから、この日一番の、温かく、そして健闘を称える大きな拍手が送られた。


キャプテンの離脱。

そのあまりにも大きな喪失感が、歓喜に沸いていたはずの清陵の選手たちの肩に、ずしりと重くのしかかる。

「……クソっ」

誰にも聞こえない声で、千夏は悪態をついた。

泥と芝生がこびりついた唇を、強く噛みしめる。

さっきまでの高揚感は、冷たい現実の前に霧散していた。

エモい? 主役感?

そんなものは、もうどうでもいい。

今はただ、アスリートとして、この喉元まで出かかった勝利を、絶対に掴み取りたい。

レイナのため。

それもある。

でも、ただ、勝ちたい。

その、剥き出しの闘争心にあふれていた。


あおいは、レイナが去っていったタッチラインの外を、一瞬だけ見つめた。

託された。

レイナの想い、臨時キャプテンという重責、そして、この試合の結末。

全てが、今、自分の両肩にかかっている。

悲しんでいる暇はない。


レイナ、任せて。

この嵐のような試合に、私たちの手で、終止符を打つ。

その鋼のような覚悟が、彼女の瞳に、静かな、しかし燃えるような光を宿らせた。


だが、感傷に浸っている時間は、一秒たりとも残されていなかった。


主審の短いホイッスルが鳴り響く。


コンバージョンキック。

トライの熱狂も、レイナの負傷も、すべてを過去のものとして、試合は非情に進行する。

レイナがピッチを去った今、誰が蹴るのか。


高梨沙耶は、泥にまみれた白いボールを、まるで大切なものを扱うようにそっと拾い上げた。

その革には、レイナの闘志が、仲間たちの汗と涙が、まだ生々しい熱を持って宿っている。

彼女は、あおいと視線を交わし、小さくうなずく。

そして、その重みを確かめるように一度だけボールを胸に抱くと、まっすぐに、小野寺美咲へと歩み寄った。


二人の間に、言葉はなかった。

ただ、視線だけが、雄弁に語り合っていた。

沙耶の、いつもは氷のように冷静な瞳が、今は祈るような熱を帯びて揺らいでいる。

美咲の目の前で立ち止まる。

そして、その両目に宿る全ての信頼を、願いを、祈りを込めて、ボールをそっと差し出した。

「……美咲。お願い」

ボールが、沙耶の汗ばんだ手から、美咲の冷たい指先へと渡る。

その瞬間、チーム全員の運命の重みが、ずしりと、美咲の両腕にのしかかった。

「……うん」

美咲は、こくりと力強く頷いた。

声が震えなかったことだけが、奇跡だった。

ゴールポストの左側。

角度はそれほどきつくはない。

だが、この極限の状況で、14分間の激闘の疲労が全身を蝕む中で、この2点を確実に得なければならないというプレッシャーは、もはや想像という言葉では表現できない、計り知れない重圧だった。

美咲は、ボールを両手で抱きしめ、キックポイントへ向かう。

一歩、踏み出すたびに、肺が焼けるように痛み、太ももの筋肉が痙攣を起こしかけている。

スタジアムの喧騒が、まるで潮が引くように遠ざかっていく。

そして、その代わりに、数多の視線が、無数の祈りが、槍のようにこの小さな背中に突き刺さる。

仲間たちの顔が見える。

歯を食いしばる千夏。

天を仰ぐ珠美。

固く目を閉じる、まり。

そして、少し離れた場所で、ただまっすぐに自分を見つめている、沙耶。

遠くに見えるH型のゴールポストが、細く、頼りなく、陽炎のように揺らいで見えた。

心臓が、肋骨の内側から破裂しそうなほど激しく脈打つ。

セブンズのルール上、与えられた時間はわずか。ゆっくりと呼吸を整える余裕などない。


だが、美咲は慌てなかった。

彼女は、ボールの縫い目を、母親の手を確かめる子供のように、指先でそっとなぞった。その、ざらりとした革の感触だけが、この狂乱の世界で自分を繋ぎとめる、唯一のアンカーだった。

静かに、自分の内なる世界へと深く潜っていく。

助走に入る。

右足を、一歩、二歩。

ボールを、そっと地面へと落とす。

白い楕円球が、緑の絨毯で、一度だけ、命を得たかのように弾んだ。

その刹那、美咲の右足が、この一年間の全ての想いを乗せて、しなやかに、力強く振り抜かれた。

インパクトの瞬間、美咲の脳裏に一つの光景が、閃光のように浮かんだ。



――中学時代の、夕暮れのグラウンド。

土と汗の匂い。鳴り響くボールを蹴る音。

居残り練習で、黙々とフリーキックの練習を繰り返す美咲の隣に、同じように汗だくの沙耶が立っていた。

「……すごいね、美咲は」

不意に、沙耶がぽつりと呟いた。

「え?」

「ボールタッチの柔らかさ、キックの精度。美咲のテクニックは、このチームで一番だよ。私なんて、貴方には全然敵わない」

それは、お世辞でも、気休めでもなかった。

チームで誰よりも負けず嫌いで、誰よりもストイックな沙耶からの、心の底からの賞賛。

驚いて顔を上げる美咲に、沙耶は続けた。

「だから、自信持って。美咲のその足が、いつか、このチームを救うことになるから」


――その、いつかが、今だ。


蹴り出されたボールは、美しい放物線を描いて、舞い上がる。

祈るように見つめる、仲間たちの顔。

固唾をのんで見守る、スタンドの応援団。

ボールは、まるで意志を持っているかのように、ゴールポストの真ん中へと、静かに、そして力強く吸い込まれていった。



わっ、とスタジアムが再び歓声に揺れる。

美咲は、小さく、強く、拳を握りしめた。


その視線の先。


少し離れた場所でその軌道を見届けていた沙耶が、静かに、しかし力強く、親指を立てた。


そして、無言のまま、深く、深く頷く。


『信じてた』

その、言葉にならないメッセージが、美咲の胸に、温かい光となって染み渡っていった。

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