第19話-3 女王の揺らぎ
蹴り出されたボールが描く、完璧な放物線。
その軌道の頂点が、まるでスローモーションのように舞の網膜に焼き付く。
そして、白い楕円球がゴールポストの真ん中を寸分の狂いもなく通過した瞬間、スタジアムは三度、地鳴りのような大歓声に揺れた。
舞は、その熱狂の中心にいながら、まるで自分だけが分厚いガラスの中に閉じ込められたかのような、奇妙な疎外感に襲われていた。
歓声は、私たちに向けられたものではない。
この、絶対王者であるはずの私たちを、崖っぷちまで追い詰めた、泥だらけの挑戦者たちに送られる、賞賛と期待の咆哮だ。
電光掲示板の数字が、無慈悲に現実を突きつけてくる。
『21 - 26』
後半のスコアだけを見れば、14-12。
私たちは、負けている。
創部一年目の、無名のチームに。
「……戻るぞ」
舞は、歯を食いしばり、チームメイトに声をかけた。
その声が、自分でも驚くほど乾いて、ひび割れていることに気づく。
振り返ると、誰もが茫然と立ち尽くしていた。
汗で濡れたジャージがやけに重く、呼吸は浅く、速い。
その瞳に浮かんでいるのは、焦り、屈辱、そして、目の前の現実が信じられないという、純粋な動揺。
これが、全国二連覇を成し遂げたチームの顔か。
舞は、腹の底から込み上げてくる苦い感情を、喉の奥で押し殺した。
ハーフウェイラインに戻る、その短い距離が、永遠のように長い。
脳裏で、何度もあのプレーが再生される。
個々のスキルは、間違いなく私たちが上だ。
フィジカルも、戦術理解度も、経験も、全てにおいて。
なのに、なぜ。
なぜ、ここまで苦しめられる。
あの、まるで一つの生き物のように連動するサポート。
一人が倒れれば、間髪入れずに二人目、三人目が壁となる。
あの、フィールド全体を切り裂くような、魂の叫び。
そして、何よりも、絶望的な状況でさえ、一瞬たりとも光を失わなかった、瞳。
あれは、技術や戦術といった、私たちが積み上げてきたものではない。
もっと根源的な、剥き出しの何かが、彼女たちを動かしている。
「美しくない」
監督は、そう言った。
舞も、そう思っていた。
自分たちが目指すラグビーは、計算され尽くした、寸分の狂いもない芸術品だ。
だが、清陵のラグビーは、その対極にある。
泥にまみれ、歯を食いしばり、不格好に転び、それでも仲間を信じて手を伸ばす。
醜い、はずだ。
なのに、なぜ。
その、醜いはずのプレーが、スタジアムの空気を支配し、観る者の心を震わせ、そして、私たちの完璧な芸術を、こうして破壊しているのか。
舞は、気づいてしまっていた。
あの熱の中に、自分が強くなるために意識的に捨ててきた、何か抗いがたい輝きがあることを。
その輝きへの、ほんのわずかな、嫉妬にも似た感情が、舞の心を静かに蝕み始めていた。
先ほどのコンバージョン失敗も、技術的なミスではない。
監督からのあのサインを受けた瞬間に生まれた、ほんの一瞬の心のノイズが、完璧なリズムを狂わせたのだと、彼女自身が一番よく分かっていた。
(……何を、考えている)
舞は、かぶりを振った。
試合は終盤。
シンビンで、私たちは一人少ない。
だが、まだリードしているのは私たちだ。
あと30秒ほどでノクソロも戻ってくる。
清陵の息の根を止めるためにも、もうワントライを奪い、圧倒的な力の差を見せつけて、この試合を終わらせるべきだ。
プライドを保つために。
女王としての矜持を、この地に刻みつけるために。
そうすべきだ。
舞は、顔を上げた。
その瞳には、再び氷のような闘志が宿っていた。
その舞の姿を、ベンチの前で腕を組んだまま、長谷川響子は静かに見つめていた。
彼女のポーカーフェイスは、一切崩れていない。
だが、その完璧な仮面の下で、彼女の心もまた、経験したことのない嵐に見舞われていた。
(……何なの、あのチームは)
響子の頭脳は、常に冷静に対戦相手を分析する。
清陵のプレーは、データ上、決して効率的とは言えない。
しかし、その「無駄」こそが、自分たちの予測を、完璧なゲームプランを、ことごとく狂わせている元凶だった。
彼女たちのプレーは、ロジックではない。エモーションだ。
一人の選手の魂の叫びが、チーム全体のパフォーマンスを、データ上の数値を遥かに超えるレベルまで引き上げている。
響子は、ふとスタンドに目を向けた。
観客たちが、総立ちになっている。
彼らが求めているのは、もはや自分が信奉してきた「完璧な芸術」ではない。
不完全で、不格好で、それでも心を揺さぶる「魂の物語」だ。
その事実は、彼女のラグビー哲学の根幹を、静かに、しかし確実に揺さぶっていた。
美しく勝つ。
それが、東嶺学院の、そして自分自身の、絶対的な正義だったはずだ。
だが、もし、その美しさが、泥臭い魂の叫びの前に霞んでしまうのだとしたら。
私たちの勝利に、一体どんな価値があるというのか。
(……何を、感傷的になっている)
響子は、内心で自らを叱咤した。
今は、試合中だ。
監督として、チームを勝利に導くこと。それが、唯一の使命。
彼女の中で、二つの自分がせめぎ合う。
だが、決断は一瞬だった。
響子は、フィールドの舞に向けて、ボールを胸に抱えるゼスチャーを送った。
それは、先ほどよりもさらに強い意志のこもった、最終通告だった。
『迷うな、舞。結果だけを掴め。時間を殺せ』と。
それは、自分自身の迷いを振り払うための、自己暗示でもあった。
舞は、そのサインを確かに理解した。
———ボールキープ。安全策。
全身から、力が抜けそうになるのを、奥歯を噛み締めて堪える。
違う。
私がやりたいのは、こんな戦い方じゃない。
女王として、挑戦者の息の根を止めるまで、正面から叩き潰したい。
そのプライドが、悲鳴を上げていた。
だが、監督の指示は、絶対だ。
そして、それが最も確実な勝利への道であることも、頭では理解している。
そうだ。今は、試合に勝つことだけを考えろ。
自分の感情は、殺せ。
舞は、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳の闘志は、今は深い葛藤の色に揺らいでいた。
最後のキックオフ。
ボールを持つ相手チームの、背番号6。
その凛とした佇まいが、まるで自分自身の失いかけた矜持を突きつけてくるようで、目を逸らしたくなった。
それでも、彼女は最後の戦いに備え、深く、腰を落とした。
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