第6話 夜
魔女は、小屋の中で静かに魔力を整えながら、青年を待っていた。
青年の旅立ちを翌日に控えた、完全なる夜──すなわち、陽が落ちきった時間が訪れたのだ。村から小屋を辿る道には、あらかじめ明かりを準備しておいた。青年の足元に不自由はないだろう。
いつ青年が訪れるとも知れず、そもそも訪れないことも考えられる。魔女は長い夜を覚悟をしていたが、その覚悟は無駄に終わった。
小屋の扉を叩く音がし、「開いているわ」と返事をすると、静かに扉が開き、青年が中へと入ってきた。
「こんばんは。加護を授かる前に、謝罪させてください」
魔女はその突然の申し出に戸惑いながらも、
「何のこと?」
と静かに問い返し、青年の言葉を待った。
「あの、迷子の救助が終わり、あなたが帰るとき……失礼なことを聞いてしまったみたいで申し訳ありませんでした。あんなことを聞く前に、何かご事情があったのだろうと、私自身で気づくべきでした……申し訳ありません」
「気にしないで。たいしたことじゃないわ」
魔女は努めて冷静に、表情を変えずに応じた。
そして、まるで青年からの謝罪などなかったように続けた。
「そこの椅子に座りなさい。あなたに加護を授けます」
魔女は、それがさも当然のように、青年に告げた。青年の表情が緩み、弾んだ声で「ありがとうございます!」と返事する。
魔女は、初めて青年がこの小屋を訪れたときに、その覚悟と誠実さ、彼の実行力を高く評価し、加護の授与に値すると判断していた。それから毎日、瞑想を重ね、長時間に及ぶ魔力の充填を続けてきたのである。
彼女はあえてその労を口には出さなかったが、その準備が周到になされてきたことは、青年の目からも察することができた。彼女の確固たる眼差しは、これから執り行う高度な魔力行使に対する自信を表しており、みなぎる魔力の威圧感に、青年は気圧されるほどであった。
魔女は、椅子に腰掛けた青年の両肩に静かに手のひらを置き、そっと目を閉じた。
魔力が行使され始めたのか──青年は、全身が心地よい温かさに包まれ、心の底から勇気と自信が湧いてくるのを感じた。それからしばらくの間、無言で儀式を続ける魔女の真剣な表情を、青年もまた無言で見つめるのみであった。口を開くのも憚られる荘厳な雰囲気が、部屋を満たしていた。
儀式の時間は、二人にとって、長くも短くも感じられた。それは果たしてしばしの出来事だったか、長い時間がかかったか。体感で推し量ることはできなかった。
やがて魔女の身体からすっと威圧感が消え、青年の肩から手が離れると、魔女は青年に静かに告げた。
「加護が与えられました。あなたに潜在していた魔力が引き出され、魔物と対峙したときの恐怖を克服し、悪意による攻撃からあなたを守ってくれるでしょう」
「この力は絶対的なものではなく、くれぐれも過信は禁物です。しかし、魔物への対抗力を著しく高めてくれるはずです」
青年が礼を述べる間もなく、魔女は続けた。
「儀式は終わりです。もう帰りなさい」
そう言って、彼女は扉を見やり、青年を促した。
青年は、その有無を言わせぬ物言いが聞こえなかったかのように、なおもその場に留まっている。魔女が、その意図を計りかねていると、青年が口を開いた。
「まだ、用が残っています」
そして、自身の旅が命懸けであること、一度村を発てばもはや無事に戻る保証はないことを伝えた。
彼が危険に立ち向かおうとしていることなど、魔女も重々承知している。いまさら青年から説明されるまでもなかったが、それでも、青年は自らを奮い立たせるように、言葉を紡いでいるように見えた。
「迷惑かもしれないけれど、最後かもしれないから、せめてちゃんと伝えさせてください」
「私は、あなたに心を奪われました」
「私たちは、ほんの少しの時間しか過ごしていませんが、それでも私は、あなたのことをずっと考えているのです」
「自分で決めた、とても大事な役割があるのに、こんなことではいけないと思っても止められない」
「あなたが魔力を使って人を助けようとする姿が、とても美しくて、もっとあなたを知りたいと、そればかりが頭を駆け巡るのです」
「あなたが何かを抱えているのは分かりました。それが何かは分かりません。でも、その何かを抱えながら、力を他人のために使い続けるあなたは美しい」
「あなたは村人たちが言う、恐ろしい魔女なんかじゃない。朝になれば火を焚いて、お茶を淹れて、生活している」
「普通に生きて、普通に寂しさを抱えて生きている」
「そんなあなたに、どうしようもなく惹かれたんです。普通のあなたが、冷たく恐ろしい魔女を演じて、皆をただ救い続けている。私にはそう見えるのです」
「でも、そんな思い悩む日々も、もう終わりです」
「明日、村を離れて、あなたと離れて、時間を掛けて忘れていきます。その前に命を落とすかもしれない。本当はあなたをもっと知りたい。でもそんな危険な旅に、あなたを巻き込みたくもありません」
「ただせめて、私の思いを知ってほしかった。あなたがこれから、少しでも寂しさを癒やして、健やかに過ごしていってほしいと、私が願っていることを知ってほしかった」
「私が伝えたかったのはこれだけです。夜分に長居してすみませんでした」
魔女は、まっすぐな青年の告白を聞きながら、胸の鼓動が高鳴るのを感じた。視線が定まらず、口を開きかけても言葉が出ない。
彼女は、青年のそうした言葉を聞きたくなかった。もし聞いてしまえば、自身の中に灯り始めた思いに、目を向けざるを得なくなる──青年の言葉を聞くまでは、自分がずっとそう考えていたのだと信じていた。
しかし今、彼女は気づいた──彼女は、青年からの言葉を待っていた。だからこそ、加護を受け終わった青年が、何も告げずにただ帰ってしまうかもしれない──そのことを怖れて、彼の言葉を待たずに追い返そうとしたのだった。
青年は、そんな彼女の臆病さを乗り越えて、彼自身の言葉で、思いを届けてくれた。
思いの丈を告げ、とぼとぼとした足取りで出口に向かった青年は、振り返ることもせず、力なく扉に手を掛けようとする。そのほんのわずかな間に、魔女は、これまで目を背けてきた自分の気持ちに向き合い、そして一つの答えにたどり着いた。
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