夏、青、涼風

それは高2の春、桜はとうに落ち切って、日によっては夏の気配がする空が見えるようになった頃だった。私が通う学校に福岡紗凪ふくおかすずなが転校してきた。

これまで大した変化もなくぬるま湯に浸かったようだった日々に、彼女は一陣の風として吹き抜けていった。そうして私の心までも攫っていってしまったのだ。


とはいえ、さすがに一目見た瞬間から、というわけではなかった。自己紹介を聞く間も、ふわふわして大人しそうな見た目の割にはっきりした声で喋るなぁ、くらいのことをぼんやりと思いつつ、私には関係のない子だろうけど、とそこまで気に留めていなかった。

全てが変わったのは2週間後の放課後のことだった。


高校に入ってから私は特定の誰かと常に一緒にいることなくおひとり様を貫いていた。

別にクラスでハブられたとかでは決してなくて、中立的な立場であちこちのグループと程よい距離を保って過ごしていた。自分がその方が楽に生きやすいと思ったから、ただそれだけ。特段に楽しいこともない代わりに面倒ごともない、平坦な日々。私が望んだことだ。

それで良かった。……良いと、思っていたはずだった。

本当は心の奥底ではそうでもなかったのだろうか。

2年に進級してからルーティーンになっていた屋上での放課後の読書に彼女がひょいっと現れてから、私はようやく自分を見つけたのかもしれない。



「ねえ、実は本読むの好きなの?」


ちょうどその日はイヤホンをして読んでいたから、彼女が来たことには影と声が同時にかかるまで気がつかなかった。もっとも、早く気づいていたところで私ひとりしかいない屋上では避けられなかったのだけど。


ほとんど引きちぎるようにして慌ててイヤホンを外し、どうして、という目で彼女を見返す。


「あ、急に話しかけて、邪魔しちゃったよね。……隣、座っていい?」


「え、ああ、いいけど」


やった、と小さく嬉しそうな声が弾む。

すとん、と私の隣——本当に肩が触れ合うギリギリの隣に座った。

もうひとり分の負荷がかかったフェンスが、ぎい、と抗議の音を立ててたわむ。

どうしてこんなところに来たの。なんで私に声をかけたの。そういうありきたりな疑問ばかりがぐるぐると頭の中を支配していて、けれどこちらの視線に気付いた彼女と目が合った瞬間、「あ、きれい」という単純極まりない感想に全て取って代わられてしまった。

遠くて青い空を映して輝く瞳も、きれいに天使の輪っかが乗った黒髪も。

教室で見るものと物質的には何も変わらないはずなのに、印象がまるっきり違う。

形のよい桃色の唇が開かれてゆくその営みのひとつひとつが脳裏に刻まれていく。

今お話ししてもいい?と聞いて、私が答えるまで律儀に待つところに彼女の律儀さが表れている。明確に何かが変わる音がした。

そこからは早かった。

何読んでるの?えそれ私も好き!好きな作家さんいる?てか曲は?わかるあれ良いよね。これ好きならこっちも聴いてみて、絶対損しないから。

軽々と会話が流れていく。まさか自分がこんな女子高生然とした話をするとは思わなかった。けれど彼女とのそれは何も不快感がない。私が自ら線を引いてきたその向こう側にいた同級生たちは、いつもこんな世界を見ていたのか。私が知ろうともしないまま面倒だと切り捨ててきたものの中に、これほどまでのきらめきが宿っていたのだ。


私たちは放課後の屋上が日課になった。今まで通り、授業時間内は大抵別々。仲が良いことを特段隠す必要もないけれど、急激に距離が縮まったことでまわりがどう動くかがわからないのだ。女子高生の中にもすでに小社会は確かにあって、そこで下手を打つとその後がやりづらい。一度変化が起きてしまえば、社会が小さいがゆえに逃げる場所などどこにもないから。

移動教室もそれぞれが他のグループに混ぜてもらって教室に行くし、お昼ご飯も別。ほどほどに周りに迎合して、校則はちょこちょこと違反するもの。律儀に守るやつは生きづらいよね、という暗黙の了解から外れないように日々をやり過ごす。不良と劣等生のレッテルを貼られたら終わり。かといって優等生もいけない。『優良生』でいるのが一番。

考えてみれば狭いコミュニティの中でなんとも滑稽なことだが、高校生は『社会』からこぼれ落ちないように必死なのだ。


一緒に過ごす中で、紗凪はよく笑う。初めはこれがいわゆる『箸が転げても可笑しい年頃』というやつかと思ったが、教室での彼女を見る限りそういうわけでもなさそうだった。

紗凪は5月の始めに転校してきて、それは新学年になってから既にグループが形成されたちょうど後だった。つまり、絶妙なタイミングでどこにも入れなかった。ほとんど私と同じ立ち位置だったけれど、大きな違いはそれを本人が望んだかどうか。

紗凪はひとりでも大丈夫なタイプだったけれど、決して最初からひとりを望んでいたわけではない。それを鑑みると、私はいま彼女の中で特別な位置にいるのだと思うのは傲慢だろうか。


何度かこの関係性に名前を付けようとしたけれど、どうもうまく当てはまるものが見つからない。親友よりも大切で、片割れはなんかしっくりこないし、恋人、というわけでもない。多分。とにかく、大切なひと。


そのうち私たちの仲の良さはじわじわと認知されていって、休み時間に2人で話していても、一緒にカラオケに行っても、自然なこととしてクラスに受け入れられていった。

ああ、楽しい。毎日が生きている。私いま女子高生してる。

心からそう思うし、紗凪にはそのまま剥き出しの語彙で伝えられる。それは彼女だって同じ。

いつの間にか、絵に描いたような夏空が広がる時期になっていた。



「あーーーっつぅーーー」


「それな?茹だるぅー、蒸されるぅー」


昼休み、いつも通り購買のパンを持って屋上へ行く。私たちの他にはやっぱり誰もいない。高校の屋上ってもっと人気のある場所だと思ってたんだけど、ちょっと肩透かし。

いや、実際屋上は人気だ。新校舎の方は、だけど。私たちがいるのは旧校舎の屋上だ。生徒数が増えて新校舎が増設されてからは、旧校舎は選択科目の移動教室だけになった。遠くて古くて狭いこっちの屋上にわざわざ来るような物好きは私たちしかいない。だから誰にも気兼ねせずのびのびと駄弁ることができた。


さっきの山ちゃん先生さ、さすがに面白すぎたよね。えわかる。控えめに言って最高だった。なんで歴史の授業でひとり劇団始まるわけ、耐えらんない吹くって。てか次の授業仙人先生の数学じゃん?は、待ってそれ知らない!!いや1週間前に時間割変更出てたよ。そんなん忘れるって〜。あーもうやだぁー、その後も英語だしぃ。


女子高生を体現したような会話。この年頃の会話なんて大した意味のないものが大半だ。明日には忘れているようなことばかり。だからこそ、一瞬の宝石箱みたいで美しいのだろう。

けれどその中には、一生忘れられなくなる会話だって確かにあるものだ。

とりとめもなく流れていっていた会話が不自然に止まって、ひと呼吸の後に紗凪が口を開いたとき、私はそのことを直感的に理解した。


じゃあさ。


「授業、サボらない?」


え、と口から声が零れる。

突然訪れた静寂は私たちが蝉の声のシャワーを浴びていることを思い出させる。


「どこ行く気」


「海」


「海なんて毎日行ってるじゃん」


そうじゃないんだよぉ、と頬を膨らませる。


「場所ごとに空は違う色なんだし、水の透明度だって違うでしょ」


だから他の海、見に行こ。


「……どこの海なの」


「どこか、遠く」


耳の奥で潮騒が聞こえた。

この時の半分に細められた目が、背徳的な笑顔が、網膜に焼き付いてしまって離れない。


結局海には行った。午後の授業をサボって校門を通り過ぎたときの、罪悪感を打ち消してあまりある開放感と、幸福。彼女が横にいるから、私は『優良生』の皮を脱ぎ去っても赦された。門を出た瞬間に手首を掴まれて、紗凪の華奢な体のどこからこんなエネルギーが生み出されるのだろうというほどの力強さで引かれるままに走る。改札を抜けて、電車に乗って、行き先も知らない道中ずっと私たちは手を離さなかった。


「南へ行こう。今の私たちに行ける限界の南まで行って、そこの海を見よう」


そう言って手を引く紗凪はこの世の何より尊いひとだと、そう強く思う。


本物の天使は羽を持ってないんだって。

いつだったか、紗凪がそんな話をしてきた時があった。聖書には天使に羽が生えているという描写はないらしい。だから、天使の羽は私たち人間が生やしたんだよ、といたずらっぽく笑っていた。こんなことを言ってはどこかしらから怒られそうだが、考えてみれば神様も天使の存在も人が創造したものなのだから当たり前の話だ。だけどもし本当に天使がいるとしたら、やっぱり羽は持っていないのだろう。きっとそれは紗凪の形をしている。


車窓から流れていく景色を眺めながら、私の肩口にもたれかかった紗凪を見て、ぼんやりとそんなことを思い出した。

ああ、いま私の肩に天使が乗ってるんだなぁ。ちょっと重いけど、羽を持ってないんだから当然か。これが天使1人分の幸せ。手のひらで包み込めるぎりぎりの。

さらさらとこぼれる黒髪を見ていると、紗凪が目を覚ました。ぽやぽやした声でここどこ、と問うのがこんなにも尊い。車内アナウンスが告げた地名を繰り返しながら、私も知らない、と答える。そういう純粋な幸せ。


私たちは本当に所持金で行って帰ることができるギリギリまで南へ行った。何度か乗り換えて、ここまでかな、と電車を降りる。

基本的にずっと座りっぱなしの移動だったから、降り立ったところで2人して思いっきり伸びをして外の空気を吸い込む。と、肺いっぱいに潮の香りが入り込んできて、私たちは思わず顔を見合わせた。

海、海だ。すでにいつもの海とは匂いが少し違う気がする。

はずむ足取りを隠そうともせず改札を抜けて、地図アプリを立ち上げながら海のある方へと歩いていく。10分ほど歩いたところで先の方に海岸が見えてきた。

だんだん早足になって、そのうちに駆け出していた。

青だ。一面青い。青、蒼、碧、その全てを含んでいるようでどれも当てはまらないような、濁りのない突き抜けるほどのあお。その中でさざなみがキラキラと細かく光をばら撒いている。

言葉が、出なかった。ただ紗凪と手を繋いで、海を見ていた。


その日は移動でほとんどの時間が過ぎてしまっていて、やっと海に満足して帰ろうかという頃には日が傾き始めていた。着いた時のあおから打って変わって鉛丹色えんたんいろに燃える海を背に、街中の方へと歩いていく。今から家に帰ろうとしても終電に間に合わないから、そのままここでホテルに泊まることになった。

駅前で服を買ってトイレで着替える。今までの人生でこんなに悪いことしたことないなぁと思っていたが、その後ホテルを取るときにはさらに少々無理を押すことになった。とりあえず紗凪の従姉妹にはお土産を買って帰ろう。

家族以外の人と泊まるなんて修学旅行以来だ。いくら話しても話題が尽きない。このまま一晩中語り明かすつもりでいたけれど、いつの間にかどちらともなく眠っていたようだ。カーテンの隙間から漏れる光で目が覚めてようやく気づいた。ほどなくして紗凪も起き出して、私たちはこの街を後にする。帰り際に駅駅で降りた時と同じように最後とばかりに大きく海風を吸い込んだ。体中を駆け巡って内側から冷やされていく、心地よい涼しさ。この夏をいつまでも閉じ込めておく術があればよかったと切実に思う。


家に帰ってからは、まあ、当然ながら大変なことになったのだけど、そんなことはどうだっていい。私の人生に紗凪以外の登場人物は必要ないのだから。



ちらほらとヒグラシの鳴き声が聞こえる頃になってきた。そろそろこの夏も過去形にしなければいけないのだろうか。それが嫌で、今日もいつも通りに屋上へ行く。


紗凪は私から目を逸らさない。私と話しているときはずっと私の目を見ている。私だって本当は黒玉のような彼女の目を見ていたいのだけど、いつも気恥ずかしさが勝って他の方を向いてしまうから、雑談の間の記憶の大半が空と海の青だ。それでも時々彼女と視線が絡まると、紗凪はこの上なく幸せそうに満足げな顔で微笑む。私はその表情がこの上なく好きだった。


会話のボールを渡すタイミングで、ごく自然に横に視線をやる。当たり前のように紗凪と目が合う。いつも通り満足そうな顔をして、フェンスにもたれかかる。

ぎい。みし。

嫌な音がした。

大きくたわんだフェンスに思わず体を離す。

バキン——。

フェンスの端に小さく空いていた穴のすぐ真上のところから金具が外れて、少女の軽い体重すら支えきれなくなった金網は、あっけなく破れて落ちていった。紗凪を道連れにして。

考えている暇などなかった。必死で手を伸ばす。目を大きく開いた紗凪が次第に小さく遠のいてゆくのがひどくゆっくりに見えて、この速さなら私でも手を掴むことができそうだなんて思うのに、現実は無情なもので私の動きだって同じように遅くなっているのだ。

もう少しで届く。そう思うけれど、そのあと少しが果てしなく遠い。とうとう限界まで乗り出した身がぐんと止まって、紗凪の指に掠めもしないまま手は空をさまよった。

ひどく青々と縁取られた朱の、なんと鮮烈なことだろうか。



その後のことは何も覚えていない。正確には、記憶はあるけれど全てが夏霞の中にあるみたいに朧げで、思い出そうとしても手が届かない。紗凪を失ったという事実だけが眼前にあって、どうしようもなくはっきりとしている。

周りの大人たちは皆すぐ隣のフェンスにもたれかかっていた私が生きていることを喜び、幸いだの奇跡だのとのたまう。幸いなことなど何もないし、奇跡でもなんでもない。ただ私だけが生き残ってしまった、それだけ。

あのときから私は耳が聞こえなくなった。病院では心因性難聴と診断された。大変だったね、と大人たちは涙する。私自身に起こったことなんて何も大変なんかじゃない。耳が聞こえなくなったところで、私は生きているのだから。

これは誰にも言っていないことだが、実は外からの音は聞こえなくなったけれど音自体は聴こえているのだ。音の記憶はあるのだから、踏切の音も人の声も、頭の中だけで聴くことはできる。紗凪の声以外は聴こうとすら思っていないだけで。

ただ、もう遠い日の海の潮騒が、まだ耳の奥で鳴り続けている。


目を閉じれば今も鮮明に海へ行った日に引きずり戻される。ずっと私が焦がれていた青を、彼女はあっさりと手に入れてしまった。私がどれだけ手を伸ばしても届くことのなかった青を、こんなにも容易く。どこまでもずるい人だ。いつも私の半歩先を行くくせに、隣を望んで離れなかった。

……いや、ずるいのは私の方か。

私は紗凪が死ぬことを知っていたのだから。



この瞬間に、私たちは共犯者になった。

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