親しき仲にも礼儀あり

 早朝。学校前の小さな橋にて。


 朝の静謐な通学路で誉羽は落ち着きなく体を揺らしていた。いつもより早めに家を出た誉羽が幾度目かのあくびをした時だった。


「あっ」


 小さな声だったが、その声は静かな通学路では大きく響く。誉羽は大きく口を開けたまま勢いよく後ろを振り向いた。誉羽の右後ろにいたのは誉羽の待ち人、万智その人だ。

 誉羽がそこにいると思っていなかったのか、万智は中途半端な位置で足を止めている。目を丸くした万智としばし目を合わせていた誉羽。万智に目に見える不調がないように見えて少し安堵した誉羽は、もたれかかっていた橋から体を起こした。

 数歩歩いて万智との距離を詰める。万智と手を伸ばせば届く距離まで来た誉羽は、勢いよく頭を下げた。


「「ごめんなさい!」」


 誉羽が発した謝罪の声に重なるように誰かが同じように謝罪の言葉を発したように聞こえた気がした。そう、万智がいた方から聞こえたような……

 誉羽はそろそろと下げていた顔を上げた。見えたのは自分と同じように頭を下げた万智だった。万智はその体勢のまま誉羽への謝罪を続ける。


「誉羽ちゃん、昨日はごめんなさい。誉羽ちゃんの事無視したり冷たい事言ったりして……本当にごめんなさい」

「違う、万智は悪くないよ。私が万智に酷いことしちゃったから……私の方こそごめんなさい。万智を傷つけたことに気付かなかった」


 畳みかけるように発された万智の言葉に誉羽は慌てて胸の前で手を振る。誉羽は万智が再び口を開く前に言葉を重ねた。


「私、万智に酷いことしたって分かったんだけど、まだ何が万智を傷付けたのか分かってなくて。こんなんだから、万智に嫌われても仕方ないのかなって。いや、これが言いたいんじゃなくて、その……とにかく酷いこと言ってごめん!今日はこれが言いたかったの。じゃあ、先に行くね」

「ま、待って!違うの、その……私、私ね誉羽ちゃんに好きなキャラじゃなくて残念って言われて悲しかったの。でも、誉羽ちゃんにそれを言わずに冷たく当たってしまって……嫌な事しちゃってごめんねえ」


 誉羽は万智に謝ったらすぐにその場を離れようと思っていた。しかし、それは万智に引き留められて失敗する。誉羽の腕を掴み、きつく握った服にしわが付く。発した声は情けなく震え、万智は目元から溢れ出した涙を止められなかった。

 誉羽は少したたらを踏む。震える万智の声に思わず振り向いた誉羽はぎょっと目を開いた。

 誉羽の袖を掴んだ万智は、ぽろぽろと大粒の涙を零していた。慌てて掴まれていない方の手を万智の頬に当てた。


「万智、泣かないで。万智は悪くない、から……私の方こそごめんねえ。残念って言っちゃってごめんなさい、嬉しかったんだよ、ほんとだよお」


 不器用な仕草で万智の涙をぬぐう誉羽。万智が泣き止むようにと言葉を重ねる誉羽は、しかし万智に感化されるように涙が溢れだしてしまった。


「誉羽ちゃんとこれからも遊びたい、からごめんね。酷いことしたの許してくれる?」

「うん、勿論だよ。私の方こそ酷いことしちゃってごめんなさい。万智、許してえ」

「うん、うん。許すよ、誉羽ちゃん勿論だよ」


 止めどなく涙が零れる。誉羽と万智は抱き合い、それ以上何も言うことができなかった。わんわんと大きな泣き声が静かな通学路に響いていた。




「おは……えっ二人ともどうしたの?!」


 大きく響いた奏子の声に誉羽と万智は顔を上げた。二人の瞼は腫れ、目は半分しか開いていない。それでも強く握りしめられた手に奏子は何かに納得したように頷いた。教室の扉をくぐり、二人の座っている席に近づく。


「目腫れすぎでしょ。ハンカチ水に濡らして冷やさなきゃ」

「えへへ、奏子お母さんおはよう。」

「誰がお母さんじゃい!ちょっと万智、この子供どうにかしてよ!」

「奏子ちゃん、誉羽ちゃんはじゃれてるだけだから。追い払ったらかわいそうだよ」


 自分のポケットを漁っていた誉羽が情けなく声をあげた。


「お母さーんハンカチ持ってきてないよう」

「誉羽ちゃん私のハンカチ貸してあげる。先に使って」

「ほんと!ありがとう万智」

「……駄目だこりゃ」


 途端に騒がしくなった教室に奏子は遠い目をした。

 万智のハンカチを握りしめた誉羽が廊下にある流し台に向かった。冷たい二月の水にさむいさむいと叫ぶ誉羽。奏子は悲鳴をあげる誉羽を振り返った。


「そういえばさ、昨日は流しちゃったけど誉羽に万智に嫌われたって言ってきた人って誰なの?」

「それどういう事?」


 奏子の声は勢いよく流れる水にかき消されたのか誉羽は答えなかった。代わりに口を開いたのは万智だ。

 その万智に奏子は首をかしげた。


「あれ、万智も知らないの?昨日のお昼ご飯の時誉羽がね、誉羽が万智を傷付けて嫌われたって言われたって言ってたんだよ」

「どういうことだろ。私は言ってないよ、それ」

「んー?あっ、誉羽。昨日の事なんだけどさ――」


 

「分かんない」


 奏子から尋ねられた誉羽は目元に濡らしたハンカチを当てながら答えた。その誉羽の返答に奏子と万智は揃って疑問の声をあげる。

 誉羽は慌てたように続けた。


「分かんないっていうか、知らないおじさん」

「えっ、知らない人なの?誉羽ちゃん変なことされてない?」


 しかし、その返答も万智に心配されてしまう事となる。奏子は頬に手を当て何かを考えていた。

 万智は誉羽のハンカチを持っていない方の手を握り、誉羽を質問攻めにする。


「誉羽ちゃん、大丈夫なの?その人と会ったのはいつ?どこ?もう近づいちゃだめだよ」

「えっとね、万智の家の近くの公園であったの。一昨日万智と別れた後だよ」

「えっあそこで?……先生に言ったほうが良いよね」


 万智の勢いにたじたじになった誉羽は、助けを求めるように奏子に視線を送った。それに気付いた奏子は、万智を落ち着かすように肩を叩く。


「万智、落ち着いて。その人が誰かは分からないんだけど心当たりはあるかも」

「誰!?」

「うわっ、落ち着いてよ万智。公園のおじさんでしょ、誉羽。コートにサンダルの」


 奏子に尋ねられた誉羽はこくこくと勢いよく頷いた。それを見た奏子が落ち着いた声音で続ける。

 

「それならちょっと前から公園にいるみたいだよ。そういう噂聞いたし。でも一週間に一回いるかいないかぐらいらしいよ」


 それを聞いても万智の眉間のシワが取れることは無かった。ちらっと誉羽を見て、奏子に視線を戻す。


「その人が誰かを傷付けた事はないの?」

「うーん、そういうのは聞いたことないかな」

「そう。誉羽ちゃん、今回は大丈夫だったみたいだけど、知らない人に声かけちゃ駄目だよ」

「はーい」


 誉羽が頷いた事にようやく安心したのか、万智の表情が柔らかくなる。

 誉羽は元に戻ったいつも通りの日常に頬を緩ませるのだった。

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1/2大人 色伊たぁ @maruiro

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