第5章 屋敷の地下室

 翌日、午前零時を回る頃。

 ふたたびスカーズフィールド館の前に立ったホームズとワトソンは、互いに無言のまま、重たい鉄門を押し開いた。


 霧は昨夜よりも濃く、まるで館そのものが息をしているかのように、吐き出す闇が地を這っていた。


 「……あのまま逃げたのは、正しかったのか?」


 ワトソンの問いに、ホームズは短く頷いた。


 「理性を失わぬためには、退却もまた作戦のうちだ。だが――今夜は決着をつける」


 懐中のランタンに火を入れ、二人は館内へと足を踏み入れる。

 蝋燭の火は消えたままで、あの広間にも、伯爵の姿はなかった。


 だがホームズは、まっすぐに階段の先――館の西翼、床下へと続く小扉に向かった。前夜の“地下の音”の記憶が、彼の思考を導いていた。


 扉は固く閉ざされていたが、鍵穴には古びた銀の紋章が嵌っていた。

 ルーシーから預かったエドワードの懐中時計を取り出すと、その裏蓋に同じ模様が刻まれている。


 「なるほど。これが鍵か」


 ホームズがそれを回すと、重たい音とともに錠が外れた。

 地下へと続く階段が、音もなく開かれる。


 「さあ、行こう。我々は“地の底の理”を暴かねばならない」



 地下室は、予想以上に広かった。


 高い天井と、石造りの壁。空気は冷たく、どこからか湿った風が流れ込んでいる。

 だが何より異様だったのは、その中央に並んだ棺の列だった。


 十、いや、十二。整然と並ぶその棺には、いずれも銀の飾りがついており、蓋には美しい装飾が施されていた。


 ワトソンが近寄り、一つの棺の蓋に手をかける。


 「開けるぞ……」


 ギイ、と鈍い音を立てて蓋が開かれた。

 中に眠っていたのは、若い女性――否、ルーシーの失踪した友人だった。顔色は蒼白で、唇は青く、だがその表情は安らかだった。


 「……息をしていない。だが、体温がある。まるで、眠っているようだ」


 ワトソンが脈を測ろうと手を伸ばした瞬間――


 その女が目を開けた。


 「う……ぁ……」


 ワトソンが後ずさる。女の瞳は濁った紅、口元には細く尖った牙が覗く。


 「……吸血の眷属」


 ホームズが呟いた。


 その瞬間、すべての棺の蓋が同時に震えた。

 中の女たちが、まるで合図を受けたかのように目を開け、起き上がり始める。


 「囲まれたか……!」


 ワトソンが銃を構えたが、ホームズは手を挙げて制した。


 「撃つな。彼女たちは“操られている”。ドラコウレス伯爵が破れぬ限り、彼女たちは解放されない」


 「じゃあどうする!? このまま喉を食いちぎられるのを待つのか!?」


 「いや――奴の心臓を断ちに行く。ここではない、“最奥”だ」


 ホームズが指差したのは、地下のさらに奥に続く、黒鉄の扉だった。

 その扉には十字架の彫刻が逆さに刻まれ、中央には血で描かれた魔法陣のような文様があった。


 「奴はそこにいる。主たる吸血鬼は、自らの棺を最も深い“夜”に隠す」


 二人は踵を返し、棺の女たちの動きが鈍る隙をついて駆け抜ける。

 ランタンの灯りが激しく揺れ、天井に伸びる女たちの影がゆらゆらと追いかけてきた。


 鉄扉を開くと、そこは狭く、真っ黒な部屋だった。


 空気は動かず、音もない。ただ一つ、部屋の中央に置かれた漆黒の棺だけが、異様な存在感を放っていた。


 「……ドラコウレス」


 ホームズが棺に手をかけた。


 その瞬間、扉が背後から音を立てて閉じた。

 闇が一気に押し寄せ、ランタンの火が消える。


 そして――


 「来たか、理性の申し子よ」


 闇の中から、伯爵の声が響いた。

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