第4章 鏡に映らぬ男
スカーズフィールド館の廊下を、蝋燭の光が静かに揺れていた。
ホームズとワトソンは、重厚な絨毯の敷かれた床を静かに踏みしめながら、音のした奥の部屋へと向かっていた。
空気は冷たく、まるで生きた者の気配を拒むようだった。
壁にかかった肖像画の目が、どこかでこちらを見ているような錯覚すら覚える。
やがて二人は、館の奥にある“音の出所”にたどり着いた。
それは、書斎と応接室の中間に位置する、施錠された扉だった。
「この部屋……前回は閉ざされていたな」
ワトソンが言うと、ホームズはドアノブに手をかけ、慎重に回した。
鍵は、かかっていなかった。
重たい扉が音もなく開き、奥に広がる空間が明らかになる。
それは、まるで舞踏会のような部屋だった。
壁一面に巨大な鏡が並び、天井からは埃をかぶったシャンデリアが吊られている。床には仄かに赤黒い染みが点々と残っていた。
「鏡が……多すぎるな」
ワトソンが警戒を込めてつぶやく。ホームズは部屋の中央に立ち、懐から何かを取り出した。
それは、前夜に伯爵から渡された“血の小瓶”だった。
「これが、奴らの鍵かもしれん。……ワトソン、注意して見ておけ」
そう言うと、ホームズは小瓶の蓋を外し、内容物を鏡の前に捧げるように持ち上げた。
途端に、部屋中の鏡が微かに鳴動した。
どこからか、囁き声のような音が聞こえた。
――命を捧げよ。血こそが贄。影は目を覚ます。
鏡のひとつに、影が浮かび上がる。それは、ドラコウレス伯爵の姿だった。
しかし――
「……おかしい。あいつは……」
ワトソンが言葉を失う。
鏡の中に浮かぶ伯爵の姿は、ホームズたちの背後を歩いている。だが、実際の部屋の中には誰もいない。
「これは、映像ではない。“存在”そのものが鏡にしか現れていない」
ホームズが呟く。
「まるで……反射する光にだけ宿る亡霊だ」
ワトソンが震える手でリボルバーを抜いた。
「つまり……あの鏡の中の男は、本物の伯爵なのか?」
「あるいは、伯爵の“真の姿”だ。彼は光を持たぬ。影と闇にのみ存在する――それが、“鏡に映らぬ”理由だ」
そのとき、全ての鏡がいっせいに砕けた。
鈍い音とともに部屋の中を破片が舞い、空間が一気に冷え込む。
そこに――立っていた。
伯爵。
だが前夜のような穏やかな微笑みも、上品な口調もない。
顔は青白く、唇は鮮血のように赤い。口元からは鋭く長い犬歯が覗いている。
そして、その瞳だけが異様に赤く、闇の中で光っていた。
「……貴様ら、我が眠りを妨げたか」
ワトソンが銃を構える。
「動くな! 発砲するぞ!」
だが伯爵はまるで動じない。むしろ、僅かに首を傾げて笑った。
「鉄と火薬では、我らは滅びぬ。そなたらは、それを学びに来たのだろう?」
「お前は――吸血鬼だな。伝承上の存在が、今ここに……」
ホームズが前に出る。
「ワトソン、下がれ。こいつは、人ではない。“現象”そのものだ」
伯爵が一歩踏み出した。
だがその足音は聞こえなかった。ただ、闇だけが彼の歩みに同調する。
「我が眷属となれ。理性を棄てよ。血を分け合えば、そなたらも“夜の同胞”となれる」
ホームズは静かに答えた。
「……残念ながら、我々は“日”の側の人間だ」
その瞬間、彼の手から何かが放られた。
銀製の小瓶。中には、粉砕したニンニクと水銀の混合液が入っていた。
ガラスが割れ、中身が伯爵の足元に飛び散る。途端に、異様な悲鳴が部屋を満たした。
伯爵の影が揺らぎ、空気が震える。
「おのれ……貴様ら……!」
伯爵の姿がぼやけ、その体が霧のように変化していく。
「……逃げるぞ、ワトソン!」
二人は走った。館の廊下を、闇に追われるように駆け抜け、玄関の扉を開け放つと夜の街へ飛び出した。
背後で、スカーズフィールド館の扉が音を立てて閉じる。まるで、生き物が唇を閉ざすように。
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