第3章 闇に歩む者
翌朝、ベイカー街221Bの居間には、奇妙な沈黙が流れていた。
いつもなら新聞を広げるワトソンの声や、ホームズのヴァイオリンの音色が響く時間だが、今日はどちらもなかった。
ストーブの上で紅茶が沸き始めた頃、ようやくワトソンが口を開いた。
「ホームズ……あの館でのことだが」
「昨夜から三度目のその台詞だ、ワトソン。言葉にする前に、思考を深めた方がよい」
「だが君も感じただろう。あの男――ドラコウレス伯爵、いや、あれは“人間”だったのか?」
ホームズは新聞をそっと畳み、テーブルの上の羊皮紙と小瓶に目を落とした。
「血の契約――それ自体は芝居めいた脅しに過ぎん。しかし、問題は“本気でそれを信じている者が存在する”ということだ」
「つまり?」
「エドワード・グレイは、何らかの儀式に巻き込まれた。あるいは、自ら進んで参加した。その鍵は、この契約書と……血液だ」
そう言って、ホームズは取り出していた小瓶を傾けた。中の液体は、窓から射す朝陽を受けて、まるでルビーのように鈍く光った。
そのとき、階下から誰かが玄関を激しく叩く音がした。
ワトソンが戸口を開けると、そこに立っていたのは警察官――レストレード警部だった。顔色が悪く、片方の手は包帯で巻かれている。
「ホームズ、すぐに来てくれ。……また失踪だ。今度は遺体つきだ」
ホームズが帽子を手に取る間に、ワトソンがレストレードに向かって尋ねた。
「どこで?」
「イーストエンドの外れ。例の館から徒歩五分の公園だ。だが……普通の死体じゃない。これを見たら、あんたも信じるかもしれん」
その遺体は、確かに異常だった。
首筋には二つの穴。そこから血が抜き取られたように、全身は干からびていた。目は見開いたまま、天を睨んでいる。衣服には引き裂かれた跡はなく、争った形跡もない。ただ、口元には微かな笑みが残っていた。
「死んだ者の口元に笑みが残ることは稀だ」と、ワトソンがつぶやく。
「生前に何か……期待していたのかもしれんな」
ホームズは地面にしゃがみこみ、足元の芝生を指先でなぞった。微かに、土が盛り上がっている箇所があった。
「これは……歩いた痕跡だ。だが――」
「だが?」
「足跡がない」
ホームズが立ち上がると、レストレードも顔をしかめた。
「どういうことだ?」
「この場所に“何か”が立っていた。だが、そこに来るまでの痕跡がない。まるで……空から落ちてきたか、あるいは――地中から這い出したようだ」
ワトソンが呟いた。
「……怪物だな。そうとしか思えん」
その言葉を否定する者は、誰もいなかった。
日が暮れるころ、二人は再びスカーズフィールド館を訪れた。門は開いたままで、まるで彼らを待っていたかのようだった。
だが、今度は伯爵の姿はなかった。館内も静まり返り、あの薄気味悪い蝋燭の火さえ消えている。
ワトソンが窓辺に立ち、外を見た。
「……あれを見ろ」
ホームズが近寄ると、視線の先にはひとつの黒い影があった。館の庭を、何者かがすべるように歩いている。いや、歩いているのではない――浮いていた。
ホームズがポケットから銀の懐中鏡を取り出し、そっと影に向けて反射させた。だが鏡には、何も映っていない。
「ワトソン。あれが“吸血鬼”だ。伝承上の存在ではなく、我々の目の前にいる“現実”としての化け物だ」
「つまり、奴が犯人だと?」
「犯人などという言葉では、語れまい。奴は“闇そのもの”だ。ドラコウレス伯爵――その名が何を意味するのか、我々はまだ理解していない」
そのとき、館の奥から金属音が響いた。何かが、開いた。扉ではない。もっと深い――地の底に通じるような、鈍い音。
ホームズが静かに言った。
「……地下だ。あの音は、地下室の蓋が開いた音だ」
「まさか……棺桶か?」
ホームズは無言で頷いた。
「我々は“何か”の巣に足を踏み入れた。ここから先は、論理だけでは通じぬかもしれんぞ、ワトソン」
その言葉の余韻を残して、二人は館の奥へと進んでいった。
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