第27話 信心

『カリカリ……』


そんな……私が今まで信じてきたものは何だったんだ。ハリーは?学会は?研究は?妻の成果は?


全てが嘘だったとでもいうのか。カルロ、お前すらも知っていたというのか。全ては私の幻覚であったと。この二十年の研究は全て、イアン・プラントンの治療の一環であったのだと。芦戸居井戸子は生きている。ハリスも。


その朗報はあまりに呑み込みきれるものではなかった。彼らを現世へ連れ戻すことはこれまで自分たちが続けてきた研究を否定することにもなりかねなかった。しかし、研究を肯定すればそれは実の息子を否定するというもの。


私は学者を目指し始めた時から、学会が発表する論文は清く正しいものでなければならないと信じ続けてきた。それこそが学者の正義であると。


しかしそれが今、この瞬間学者としての正義と人としての正義を天秤にかけている。私は息子を救いたかった。それなのに、今はそれと同じくらい私は研究の日々を愛してしまっていたのだと知ってしまった。


息子と研究。どちらをとるかは私にかかっている。カルロに選択の余地を与えられたから。今ハリスは生と死の狭間にいる。魂は遺体から離脱しているものの、彼の魂は生き続けている。私の幻覚は幻覚ではない。無論数日前までリリやカルロには見えていなかった。全ては私の幻覚だという結論に至ったらしい。しかし最近、ハリーがその姿を現した。息を引き取った病室を訪れたリリが院内の渡り廊下で出くわしたのだった。


カルロの話によれば、井戸子やハリーのように実体を帯びるようになった幽霊はある条件を満たすことで現世に戻ることができるという。

条件とはその実体が完全に消滅してしまう前に、当人の遺体と対面させること。厳密にこれは記者の朝比奈が言っていた事だ。

カルロと朝比奈は井戸子を追って彼女の故郷である港町へと出発した。それが昨日、8月29日のこと。


『カリカリ…』


私はというとハリーを蘇らせるか、幽霊に関する論文を完成させ学者としての正義を果たすかを迫られている状況である。

ハリーが蘇ったら、その年齢は亡くなった時の年齢と同じであるという。ハリーは二十年の空白がある私たちを受け入れてくれるだろうか。先に逝ってしまうかもしれない私たちの生活を望むだろうか。


言うまでもない。私はハリーを選んだからここへ来たのだ。


「なのにどうして……」


『カリ…カリ…』


棺の縁を引っ掻く音が室内に静かに響き渡る。


どうして蘇らないんだ……!?


実体を持っているハリーは自らの遺体が入った棺の縁を指で掻きながら、ただぼぅっとそこにあるもう一つの自分を見つめていた。

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