第17話 この街
「井戸子、本当に行ってしまうんやな」
「うん。寂しくなるけど、大学通うためにふるさとを出るっていうのは普通の話なんやて」
「そっかぁ。海は広いな……」
「何言ってん。今日の小絵けったいなよ?」
井戸子の言葉も聞こえていない様子で、小絵は海の一点だけを見つめたまま動かない。
「私な、圭介と別れてん」
井戸子は咄嗟にまずいと思い黙り込む。”恋愛では先越してる”という言葉は嫌味なんてものじゃなく地雷であったのかもしれない。
「でもなんか悲しくないんよ。夢とか勉強と似てるなって思って。私、誰かに負けても悲しくなかった。勉強も夢も恋愛も、誰に勝とうとか思わんかった。もちろん井戸子が夢に掛けてる想いとは到底張り合えるとも思わんし、張り合おうとも思わん。誰かとの別れもそうや。圭介だけじゃない、ばあちゃんや親せきの不幸を聞いても悲しくないんや。もっとなんかこう、血なまぐさいというか、海の二メートルくらいの深さに停滞してるような気持ちや」
海の二メートル付近の気持ち……うん、わかりづらい。
「でも、井戸子に会えんなるのが私は悲しい。別に二度と会えんようになるわけでもないのに、この街から井戸子が出て行ってしまうことが悲しいんよ」
小絵の目が少しだけうるんでいる。井戸子は気づいていなかった。これまで自分がどれだけこの街に浸透していたのか。それも今、小絵の言葉によって紐解かれる。経った数瞬のように感じられた写真のような出来事が、この街で生きている人にとっては本物だったのだ。
私は周りの人との時間を意識して大切にしてこられただろうか、それを考えるほどに心の表面にできた大きな穴がずきずきと音を立てて亀裂を走らせていくようだった。きっと私の夢は誰かとの時間を削ってまで追うような泥臭い仕事ではない。だからこそ、そんな生き方をしてしまったことがもったいなくて悲しくて、切なかった、と井戸子は考えて目をつぶる。
*
小絵が前を向いている間に気づかれまいと涙をぬぐい、気づかれれば潮風のせいだとでも言うつもりだった。何でもいいのだ、事象など。起こることは塗り替えられる。過程などは結果を確かなものにするための言い訳に過ぎないのだから。
私が海を出て、ただ20歳相応の夢を見てそしてまたどんな形になってもこの街に帰ってくる。その時はみんな喜んでくれるだろう。私とのお別れの為にこんなに悲しんでくれる親友がいるのだから。そして私はその時初めて孤独になったふりをしてしまうのだろう。
悲しくて切なくて息が詰まりそうなときは、そんなドラマを作っていると思えばいいのだ。ドラマの為の過程に過ぎない感情を望む結果に結びつければみんなが幸せになって幕を閉じる。私はそうやって生きてきたつもりだった。いつまでも頑固な心根で、一人で生きていけるなどと勘違いして。
本当はこの街に生かされていたとも知らずに。
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