第16話 小絵

「まさか井戸子に先越されるなんてさ」


「なによそれ。小絵ちゃんだって恋愛では先越してるやんか」


「喧嘩中の私にそれ言うん嫌味やろ」


ペットボトルのキャップを外し、一気に流し込む小絵。雨上がりの港は夏ではなくとも干からびてしまうのではないかと思うほど暑かった。これでは水道水のみならず海水がいくらあっても足りないだろう。


「何考えてるの?」


小絵が井戸子に問いかける。


「しょうもないことよ。こんなに暑かったら海がどれだけ広くても足らへんなって思うてたん」


「いやいや、海なんか呑んだら喉干からびてしぬて」


「なんでよ」


「だってほら、しょっぱい」


「しょっぱいからって海が塩分でできてるかなんてわからんよ」


「でも身体は正直にしょっぱい言うんやから干からびるに決まってるよ」


「そうかなぁ」


「うん、うん」


二人の間に少しだけ静寂が流れる。海を見ながら井戸子は考えた。世界は多くを知らないから私も多くは知らない。このまま大学に行っても自分の進む道では死ぬ間際まで世界の全てを知ることはないだろうし、私はそれに焦燥感といった特別な感情は抱かない。なぜ人は自分が気になることには分からないことを分からないままにしないのに、友達や家族の感情を知りたいとは思わないのだろうか。私は、それが出来たらきっと楽だと思うのに。私も、何故か知りたいとは思えない。


「まーたなんか考えてるな?井戸子」


小絵が顔を覗き込む。


「ごめん。何でもないよ」


「そうか。まぁいいんよ悩みとかじゃないなら」


「うん。悩みとかじゃないけどさ、小絵は人の心を読んでみたいとか思うことないの?」


「え!井戸子、人の心読めるの?!」


「すっ飛ばしすぎやて。私はただ気になっただけやし人の心なんか知らんよ」


「なーんだ、超能力者かと思っちゃった」


「そんなんおらんよ。でもさ、もしそういう力を授かれるとしたら小絵は圭介の心の中、覗きたいと思う?」


「もう、また私の話かいな。うーん思わんよ。知りたくないし、もし理性と本音が別だったらって考えると、それは少なくともその人にとって知ってほしくない感情なんじゃないかなと思う」


「ごめん小絵の話ちょっと難しいわ」


「圭介がもし私のこと潜在的に嫌いとか好みじゃないとか思ってたら私耐えられんってことやよ」


「そうか。ありがとう、なんか腑に落ちたわ」


「井戸子って変だよね」


「え、なにが?」


「そういうところ」


何となく距離感のつかめない二人の間を温みを帯びた風がゆらゆらと通り過ぎてゆく。三月の終わり、雨上がりの港はとても春を待つ季節とは思えない不思議な気温だった。

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