水と酒の生まれ出る

アイス・アルジ

第1話 水と酒の生まれ出る(お題:「名」「溜息」「希少」)

 大杉と広葉樹の混合林、樹木は岩の上に根を走らせ、しがみつくように生えている。光が遮られた根の周りは、水を含んだ、ふかふかな緑の苔に覆われている。樹木は苔がなければ十分な水を確保できないし、苔は樹木がなければ日に焼かれ干からびてしまうだろう。美しい森。


 岩の隙間から水がしみ出し、苔を伝い雫となって滴り落ちる。湧水は幾筋もの細い流れとなって、また岩の間の中にしみ込み、やがて一筋の冷たい水の流れとなる。

 ここは水の生まれるいずる所。小さな池の脇には白い石の祠が祭られてあり。透き通った清水を湛えている。


 冬には、屏風絵のように雲を生み純白の雪をいただく、八つの峰のふもと、今では過疎となった名水の里「谷ツ鐘やつかね村」。

 ここには一軒の造り酒屋「清水や」があった。白壁と焼杉の黒い外観、黒瓦。硬く締まった土間、艶を帯び、年を経ても丈夫に屋根を支える杉や柱と梁、楢などの建具に家具。檜の大樽。

 酒屋を囲む森から生まれる静謐な空気、土壁と古木の中に生き続ける酵母菌。酒蔵の中の空気は湿度と低温が保たれ、かつて多くの杜氏が集い名の知れた銘酒が生まれた。 


 しかし今では、名水の流れる谷筋に残った棚田で、年老いたの農夫が細々と米を作り。酒屋は、敷地から湧き出している名水を使い、高齢の夫婦が細々と酒造りを営んでいるのみ。

 かつての銘酒も、滅びゆく少な酒として、幻の日本酒となっていった。

 

 やがて親戚筋の一人の若い娘「しずく」が酒造りを継いだ。かつては酒蔵の神を怒らせないため、女人禁制だったが、今ではそんな習慣は残っていない。

 酒蔵に雑菌を持ち込まないための、象徴的な意味合いがあったのかもしれない。


 酒造りは、麹による糖化と酵母によるアルコール発酵を同時に行い、複雑で繊細に管理された製法を守らなければならない。この工程を維持するためには、常に変化するもろみ***を観察し、温度管理など、熟練の知識と経験が必要となる。蔵は常に清浄に保たれ、麹と酵母が生づく空間だ、雑菌の混入は許されない。

 かつて、ここの杜氏は滝で心身を清め、敷地から流れ出る清水で毎日体を洗った。


 「清水や」には夢が生まれた。そのうちに、どのような縁か一人の若い杜氏「翔流かける」が住み込み、酒造りを手伝うようになった。

 普通、多くの杜氏は契約した酒蔵を渡り歩いていたが、人里から離れたこの村まで来る杜氏は、いつしかいなくなっていた。

 

 やがて二人は恋に落ちていった。二人の仲はもろみ***の発酵の如く、静かに着実に醸成されていった。

 

 夜になると酵母たちは、ほつほつと囁き、ふーっと溜息にも似た吐息を漏らす。夢を見るのだろうか。

 杜氏は、そんな麹たちの営みを聞き、時に愛撫するように、また時には戒めるようにそっと静かにもろみをかき回し、鎮める。

 「しずく」と「翔流」二人の愛が深まるとともに、酒自体の味も深い甘みを湛え、引き締まっていった。まるで酵母たちが二人の愛を糧にしているかのように。


 「清水や」に若木の杉玉が掲げられる。こうして新たな銘酒「いずる」が生まれた。その香りは清らかな森のように深淵で、二人の愛のように円やかな甘みを湛え、赤子のように柔らかだった。

 人々が集う。清水のように生粋な酒、この「いずる」の香を含み見て、一口飲み聞く者は、だれもが心と体にしみ込むような、その静謐な味わいの雫に、思わず息を漏らさずにはいられなかった。


 天翔あまかけて新たにいずる新酒のしずく 





 —――自主企画【三題噺 #106】「名」「溜息」「希少」への作品。やはり、お題をクリアーして物語を完成させるのは、なかなか難しい(これも一種の修行)。 (Ice.A 2025/08/02)

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