第二章 戸惑い

第二章 戸惑い


第一話 教室


 ユリは頭が痛かった。

頭の中は重い霧に包まれているようで、すべてがぼんやりとしていた。

思い出そうとするたび、記憶の断片はすぐに霧散してしまう。


 私は、何者だろうか?

その問いが、頭の中をぐるぐると巡る。

こんな当たり前のことが分からないのが、どうしてこんなに怖いのだろう?


 目的は、確かにあるはずだ。

私は、何かを成し遂げるためにここにいる。

でも、その「何か」が思い出せない。

どこかで、それを無意識に閉じ込めている気がしてならない。


 そして、あの男の顔。何度も何度も現れる、あの顔。

嫌悪感、憎悪、殺意、いろんな感情が胸を締めつける。


 その顔が何者で、何をしたのか、すべてが曖昧で、記憶の中で絡み合う。

ただ、深い闇の中から浮かび上がる、その歪んだ表情が怖い。

そのとき、教室の静けさを破るように声が聞こえた。


「はい、これ。プリント。うしろに回して」


 無意識にプリントを受け取り、後ろの席へと回す。

視線が前に向いたそのとき、何かが違う。

前の席の女の子が、じっとこちらを見ていた。


 目が合う。

その視線に、心の中で不意に何かが動いた。


「白鷺さんだったよね? 何中からきたの?」

「何中?」

「前の中学校だよ」


 ユリは少しだけ目を逸らしながら答える。

「最近引っ越してきたから、県外からなんだ」

「えー、そうなんだ」

その子の声には、ほんの少しの好奇心と驚きが滲んでいた。


 きっと彼女にとっては、ユリのような目立つ存在を初めて見たのだろう。

その反応に、ユリは少し不安を覚えた。

でも、すぐにその不安は、次の言葉で打ち消された。


「でも、白鷺さん、注目度高いよね」

「え? なんで?」

「いや、きっと美人すぎるからじゃない?」

その言葉が、ユリの胸をほんのりと温かくした。

自分でも驚くほど、心が少し和らいだ。

でも、その感情はすぐに薄れていく。


「そんな…ことない」

そう言いたかった。でも、口をつぐむ。

言うべきではないと、無意識に思ったからだ。

その言葉を、自然に飲み込んでいた。


「私、吉岡理沙って言うんだ。 部活、バレーボール部に入るつもりなんだけど、白鷺さんも一緒にやらない?」

さっぱりした笑顔を見せながら、その子は誘ってきた。

ユリは少し考え、そして答える。


「いや、運動苦手だから」

「そう。運動神経よさそうだけどね」

その言葉をふわりと受け流し、ユリは軽く笑った。


 運動神経が良い?

そんなの一度も感じたことがない。

ただ、足元が重く感じるだけだった。


「ありがとう、誘ってくれて」

「ま、クラス一緒だし、仲良くしてね」

その子は明るく笑った。

ユリは微笑みを返したが、その笑顔を心の中で消していった。


「仲良くしてね」――その言葉が、何もかもがどうでもよくなったように感じさせる。

女の子は友達の元へと戻り、教室の空気は再び穏やかになった。

ユリはしばらく、プリントを手に取ったまま、頭の中でその言葉を繰り返していた。

「仲良くしてね」

だれと、どうやって?


第二話 ユリの夢 【誰?】


 ユリは夢を見ていた。

病院のベッドに横たわる、見覚えのある顔の少女。

その顔は、自分のもののようで、けれど全く異なる。

目を開けても、目を閉じても、その顔が消えずに、ずっとそこにあった。


 少女は動かない。

まったく、何も感じていないかのように、ただ横たわっている。

ユリはふとそのそばに近づく。

その顔を覗き込むと、思わず息が詰まりそうになる。


 それは、まるで自分の一部が無くなってしまったかのような、深い違和感に包まれていた。


「あなたは誰?」


 声をかけると、少女はまったく動かない。

「なんで動かないの?」

それでも、答えはない。

まるでそこに存在していないかのように、静けさが支配していた。

ユリはその静けさに、少しだけ恐怖を覚える。


「もしかして、あなたは私なの?」


 声が、空気に溶けて消える。

その問いも、誰にも届かない。

「ねえ、わたしはなぜ、ここにいるの? 教えて」

ユリの声が、どこか遠くに響いていく。

その問いは無意味に思え、胸に広がるものがあった。


 そのとき、突然、少女の目が大きく見開かれた。

ユリは思わず足を止め、後ろに一歩下がった。

目が、ただ見開かれたのではなく、まるでユリを捕らえようとするかのように、静かに、ゆっくりと動き始める。


「あなたは、わたしの身代わりなの」


 少女の口は動いていない。しかし、はっきりとその言葉が耳の中に響く。

ユリは、ただその声に耳を傾けていた。

その言葉が、冷たい風のように心を吹き抜ける。

「え?」

ユリは息を呑む。

「なに?」

その声が、どこからでも聞こえるような、でもどこから来るのかも分からない。


「あなたは私。わたしの恨みを果たしてほしいの」


 声は、今やユリの耳の中に直接届く。

それは言葉であり、響きであり、何もかもが曖昧に溶けている。


「恨み?」

「そう、あの男を殺して」

「殺す?」

「わたしをこんな目にあわせたあの男を殺して」

ユリはその言葉に凍りつく。


「……あの男って?」

少女は答えない。ただ、目がどんどんと暗くなる。


「――あいつ」

「……あいつ」

「……あいつ」

その言葉が、何度も繰り返されるたび、ユリの目の前の世界が薄れていく。

景色が溶けるようにぼやけ、すべてが霧の中に消えていく。

それでも、あの言葉だけははっきりと耳に残る。


 “あいつ”――それが何を意味するのか、ユリには分からなかった。

夢の中の世界は次第に消え、ユリの意識は遠くに引き寄せられていく。


 その声が、深い闇の中に消えていくのを感じながら。

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