第三章 昇降口

第三章 昇降口


第一話 帰宅


 ユリは昇降口に立ち、靴をローファーに履き替えた。

外はすでに夕方の風が冷たく、校舎の隅から差し込む光が少しずつ薄れていくのが感じられた。


 その時、声をかけられた。

「よう、白鷺」


 振り向くと、湊が立っていた。

彼の顔は、いつものように明るいけれど、どこか無防備で、人懐っこい表情を浮かべていた。


「おまえ、部活どっか入った?」

ユリは少しだけため息をつき、答える。


「いや、入ってない」

「入らないの?」


「うん、あまり好きじゃないかな」


「なにが? 部活が?」

「いや、人と話すの」


 ユリは言ってから少しだけ顔を伏せる。

自分でもその言葉が他の人にどう響くのか分かっているから、少しだけ言葉を選んでいた。


 湊は一瞬、驚いた顔をした後、軽く笑った。

「あら、じゃあゴメンかな。おれ話しかけちゃった」

ユリは慌てて首を振る。

「う、うん、そういうことじゃないの」


 湊は肩をすくめ、気にした様子もなく話を続ける。


「おれも部活はいらないんだ。親がうるさいから」

「親?」

「はやく戻って来いって」


ユリは少しだけ顔を上げ、湊の話に耳を傾ける。

「そうなんだ」


 しばらくの沈黙の後、湊が軽く口を開く。

「なあ、途中まで一緒に帰っていいか?」

ユリは少し驚きながらも、すぐに頷いた。


「ええ、大丈夫」

「じゃあ、行こう」

湊が軽く歩き出すと、ユリもそれに続いた。


 二人は並んで学校を出た。

その後ろ姿を、誰も気に留めることはなかった。

ユリは、湊との間に微妙な空気が流れていることを感じながらも、何も言わずに歩き続けた。


 放課後の街は、やわらかな夕陽が通学路を染めていた。

 ユリと湊は、歩道の端を並んで歩いていた。一定の距離を保ちながら、それでも自然に歩幅は合っている。


「おれさ」

 湊がふいに呟くように口を開いた。


「将来、なに目指したらいいのか、全然わかんないんだよね」

 ユリはその言葉に反応できず、うつむいたまま足を動かし続ける。


 ――将来? それは、どこにある?

わたしは、なぜここにいるんだろう。

何が目的だった? それすら霞んでいるのに、将来なんて…。


「ん? どうした? 聞いてた?」

「あ、ごめん。ちょっと、ぼーっとしてた」

 ユリは慌てて顔を上げた。「将来、だよね?」

「そう。白鷺は、なんか考えてる?」

 一瞬だけ迷って、ユリは答える。


「…看護師、になりたいかも」


「へえ、看護師? なんで?」

「身内に、寝たきりの子がいて。ちゃんと看病してあげたいなって、思ったから」


「身内って、兄弟?」


「ううん、従妹。昔から仲が良くて…」

「そっか。そういう目標あるの、いいな」

 湊は素直に感心したように言った。


「おれなんて、何にもなくて。ていうか、ちょっと家が…複雑でさ」


「ご両親、いるんでしょ?」

「うん、まあ。母さんが再婚しててさ。だから義父ってことになるのかな」

 湊は小さく笑って、頭をかいた。


「まあ、別に悪い人じゃないけど、なんか気を遣っちゃってさ。自由に物考えられないっていうか…ごめん、こんな話」


「ううん、わかるよ」

 ユリは小さく呟いた。


 ――“義父”。その言葉が、どこか遠くの深い井戸の底で、鈍く響く音のように、ユリの胸に残った。

 しばし沈黙のあと、湊が軽く声をはずませて言った。


「なあ、今度さ、映画でも行かない?」


「映画?」


「いや、ごめん! デート誘ってるみたいに聞こえたらごめん! そういう意味じゃなくて! ただ、なんか、気分転換にさ」

 ユリはふっと笑って、湊の方を見た。


「……いいよ、デートで」


「う、うそ。マジで?」

「マジで」


「じゃあさ、今度の土曜。駅前のシネコン、どうかな」

「うん、時間教えて」


 湊は嬉しそうに笑って、空を見上げた。


 その横顔を見ながら、ユリは、胸の奥に小さく灯ったぬくもりが、自分の中に確かに存在することを不思議に思っていた。


 それでも、頭の片隅では――

 “私の目的は、これでいいの?”

そんな声が、かすかに問いかけていた。

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