第一章 入学式

第一章 入学式


第一話 白鷺ユリ


 春の風が、校庭の桜を淡く揺らしていた。

咲き始めたばかりの花弁が、ふいに吹いた風にひらりと舞う。


 県立桜塚高等学校の講堂では、入学式が粛々と進められていた。

呼名とともに起立する制服姿の新入生たちの中に、ひときわ目立つ一人の少女がいた。


白鷺ユリ(しらさぎゆり)

一年二組、出席番号12番。


 白く透けるような肌に、深い黒髪。

伏せた睫毛の影さえ美しく、誰もがその姿に息を呑んだ。

式の最中も、同学年の男子たちは何度も彼女の方へ目をやり、

小声でざわめきが広がっていた。


「すげぇ美人……」「モデルとか?」「いや、マジで芸能人じゃね?」


 彼女の過去は、あまり知られていない。

書類上は「中学卒業と同時に、別居していた父親・白鷺博文の元に引き取られ、この町に戻ってきた」とあるが、それ以上の情報は教師たちもつかんでいなかった。

だがそんなことは、他の生徒にとってどうでもよかった。


 彼らの目に映るのは、ただひとりの“完璧な少女”。

その存在感だった。


 講堂の式が終わり、各クラスに分かれての初めてのホームルーム。

二組の教室では、新しいクラスメイトたちがぎこちなく隣の顔をうかがっていた。

窓際の席に座っていたユリの隣に、ひとりの男子がやってきた。


 小柄で、黒髪を軽く流した少年。

目立つわけではないが、身だしなみはきちんとしていて、どこか安心感のある雰囲気を纏っていた。


 少年は椅子に腰を下ろすと、何の気負いもなくユリに話しかけた。


「おれ、小野 湊(おの みなと)。よろしくな」


「あ……はい。よろしく」


 その声に、どこか曇りがなかった。

無理に話題をひねり出そうとするわけでも、距離を詰めようと焦る気配もない。


「……なんか緊張するな、こういうの」

「緊張?」

「うん。おれ、このへんの地元じゃないんだ。だから友達いなくて」


 ユリは彼の横顔を見た。

そこには、自分の美貌に驚くでも、興味を示すでもない“まっすぐなまなざし”があった。


「そう……。わたしも」

「え?そうなんだ」

「うん」

「じゃあ、もっとよろしくな」

 

 彼は自然にそう言った。

目を逸らさず、でも覗き込むようなこともせず。


(……この人、目を逸らさない)

(でも、見透かそうともしない)

 ユリはそのことに、少しだけ驚いていた。

 これまで、どんな男子も “美しい” という鎧のような外見に惑わされ、近づいてきた。

 わざとらしい気遣い。媚び。下心を隠しきれない視線。

 それらすべてをユリは軽蔑していた。

 いや、疲れていたのだ。


 けれど――この少年は違う。

ただ「となりに座った同級生」として、当たり前のように話しかけてきた。

 そこに計算も欲望もない。

 (……たぶん、そういう教育を受けてきたんだ)


 ユリは直感した。

人の「顔」と「中身」を分けて見る訓練。

人としての敬意を、最初から備えている家庭。

 それは、ユリが持ち得なかった“普通”の温かさだった。


 彼の名を、もう一度心の中で繰り返す。

小野 湊――

 今日この日から、彼の存在がユリの運命を静かに狂わせていくとも知らずに。


第二話 ユリの夢 【痛み】


 ユリは夢を見ていた。

けれど、夢の中ですら、何もかもがぼやけていて、はっきりしない。

 ただ、揺れ動く影があった。

何もしていないのに、全身が痛い。

目を開けた先には、真っ赤な壁――それが、どうしても目を離せなかった。


 誰かが叫んでいたような気がする。でも、声は届かない。

 耳が、身体が、心が、どこか遠くに置いてきたみたいに。

 目の前で、手が動く。

握られた物が、冷たくて、硬くて、痛い。

 ……痛み? それとも、ただただ、重たいだけのこと?


 誰もが見ていた。

誰もが知っていたはずなのに、何も言わなかった。

 ただ、静かに見ていた。

だれかが、どこかで笑っていた。

その笑い声が、すぐに泣き声に変わった。

 それを聞いた気がしただけで、胸の奥が裂けるように痛んだ。


 そして、次に気づくと、私は空に落ちていた。

ずっと上から、下に向かって、ただただ落ちていった。

助けてくれと言いたかった。でも、言葉が出なかった。


 どんどん深く、遠く、見えないどこかに向かって、私は落ちていく。

 音が、消えた。

身体が何かに触れる、感じがした。でも、それが何かはわからなかった。

 だんだんと、ただの夢の中に溶けていった。


 目を開けると、病院の天井があった。

でも、私がいるのは、まだあの場所だと思った。

 なにもかもが遠くて、私は寝ているだけ。


 いや、寝ているのか?

でも、わからない。私の身体は、ただ、重いだけ。

 誰かが手を伸ばしている。

 でも、それもどこか遠く、ぼんやりとした影に過ぎなかった。


 男? その顔も、記憶の中で滲んでいく。

私は何も言わず、ただその男と一緒にどこかへ向かって歩いている。

 何もない、ただの道を歩く。

けれど、その男と私は、最後には一緒に出て行った。


 何もなく、私たちだけが歩いていた。

その男も、私と一緒にいるように見えた。でも、すぐに消えてしまった。


 ホテルのドアが閉まる音が、ふっと遠くで響いていた。

その後に、またあの男が姿を現したような気がした。

私は何も覚えていなかった。ただ、顔が浮かぶ。

 憎くて、怖くて、やりきれない顔。

すべてが私を捕らえようとしている気がした。


 男の顔、母親の顔、あのとき見た担任の顔――


「どうして、誰も助けてくれなかった?」


 涙が止まらない。

ただ、ひたすらに泣いている。

誰も見ていないから、泣いてもいいんだと、それだけが安心だった。

 その泣き声が、部屋中に響いている気がした。


 そして、ふっと気づくと――

警察官が現れた。

その人が、私をまた“あの場所”に戻していこうとしていた。

 私は、もうどうしていいかわからなかった。

無意識のうちに、警察官を拒絶していた。

でも、結局、私は引き渡されていた。

全てが、夢の中の出来事なのに、

そのすべてが現実のように、深く刻まれていた。


 憎い。

 男が憎い。

 母が憎い。

 あの警官が憎い。


 憎しみが、ぐるぐると胸の中で膨らんでいく。

その膨らみが、どこか冷たくて、痛い。

 また、私は目を覚ます。

でも、夢の中でも現実の中でも、

私はずっと、ただひたすらに憎んでいた。

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