第七話 ささやかな散歩

 朝の陽射しに照らされる巴里の街並みは、なんてことはないありふれた建築さえもきらきらと輝いて見えた。

 ニュースでよく見かける区画はどの辺りなのだろうか。歌に出てくるシャンゼリゼは?見慣れない景色にマリーの目もきらきらと輝いていた。そんな彼女の横で、ポケットに手を突っ込んだまま歩くアレクシィはどこか得意げだ。


「この辺はまだ住宅街って感じだけど、一つ向こうの通りは観光客向けの店が増えて来るんだよな。って言われても分かんないか」

「うん……中庭で運動するくらいしか、外に出たことはなかったから……」

「やっぱなんかやべー施設じゃないのそれ……まいいや!今日はおれが色んなマナーとかお作法教えてやるからな!」


 彼はウインクをすると、何か見つけたのかとある看板を指さした。とりどりの果物たちが大げさな飛沫をあげて切られている。どうやらドリンクスタンドのようだ。


「あそこって、その場で作ってくれるフルーツジュースが超美味いんだよ!そだ、折角だし飲み物買っていこ!」

「……わかった」


 アレクシィに勧められるままに、マリーは苺ミルクを、アレクシィはキウイシェイクを買うことにした。店員からカップを渡されてすぐ飲み始めたアレクシィに、マリーが小さな声で言う。


「立ったまま飲むのは、お行儀悪いよ」

「いーじゃん、出来立てをすぐ飲むのが美味しいんだから!」


 飲んでみなよ、と促され、マリーも歩きながらストローに口をつける。潰した苺に牛乳、それから何かシロップの甘味。ひんやりとしてのど越しもいい。

 これが、彼の言うお作法なのだろうか。妙にくすぐったい気持ちになってくる。


「な、美味しいだろ!」

「うん……」


 快闊な彼の笑顔につられて顔を上げて見れば、視界に入るのは色とりどりの服で着飾った人々、古風な看板、どこからか聞こえてくる音楽――これまでの暮らしで、触れたことのなかったものがそこに広がっていた。

 ああいうものが、この街にいれば手に入るのだろうか。夢見心地で街を眺めていると、突然誰かが手に触れてきた。


「わっ……」

「あ、ごめん!ぼーっとしてたみたいだから、危ないと思って。……怖かった、よな」

「……少し、吃驚した」


 そんなマリーの様子に、アレクシィはふっと真顔になった。


「昨日、あんなことがあったばっただもんな……さっきは勢いで連れ出してきちゃったけど、大丈夫か?」

「あ、うん……わたしも、あんまり実感が湧かなくて。この方が、バルザックさんに色々聞かれたりするよりは楽、かも」


 マリーの返事を聞くと、アレクシィはまた明るい笑顔に戻った。そして、相手が旧来の仲間だったかのように気さくに話し出す。


「だよな!あの人すっごい真面目でさー、アントワーヌとおれが凄い作戦考えたときいっつも予算とか実現性とかでネチネチ文句言ってくるんだよな!」

「アントワーヌさん、普段から文句言われてるんだ……」

「おれは格好いいと思ってるけどな!」


 胸を張る彼の姿に、マリーは思わず笑みを溢した。


「笑ってくれるのは良いけどなーんか厭だなぁ……ああ見えて、昔は軍人だったんだぜ!」

「……軍人?」

「10年ぐらい前の大戦で活躍してたんだってさ。おれはよく知らないけど……サロンの人たちってそういう繋がりもあったらしくてさ、会長なんか勲章幾つも貰ってんだよ」

「あの人が?」


 マリーは花に埋もれていたあの男のことを思い出す。只者ではない雰囲気はあったが、彼が凛々しく戦っている姿は想像もつかない。


「他にもスタンダールとかプルーストとか……アントワーヌの師匠だっていうジイドさんなんかいたら、時計塔にいいようにされたりなんか絶対しないって言ってたぜ!」

「そ、そんなに……?」

「でも今じゃみーんな伝説の人。その辺はおれよりバルザックかカミュの方が詳しいと思うぜ」


 バルザックは確かに強かったけれど、それを上回るような人が過去にいた……ということは、もしかしたら「時計仕掛けの歩兵隊」にもそのレベルの異能者がいるのかもしれない。もしそんな相手と出会ったら、と思うとゾッとした。


「流石にそういう人たちには劣るかもしれないけど、おれだって十分鍛えてるからな?いざって時は頼ってくれよな!」


 マリーの不安を知ってか知らずか、そんな言葉をからりとした調子で言い放つアレクシィ。彼はマリーの方に拳を突き出して見せる。そんな姿に首を傾げながら、片手で差し出された手を包むマリー。


「ちょ、違うって違うって!」


 顔を真っ赤にしたアレクシィは慌てて手を引っ込める。


「こういう時は拳骨同士でタッチすんの!友情の証ってやつ!」

「こ、こう?」


 今度はマリーが拳を差し出し、それに向かってアレクシィが拳を突き合わせる。

 こつん、と伝わる感触が、手を握ったり抱きしめたりするのとはまた違った温度で伝わってくる。これが、普通の子どものする普通の挨拶なのだろうか。マリーはアレクシィといつのまにか、昔からの友達になった気がしていた。


「へへ、これでまた一つ、知識が増えたな!」

「ありがとう……アレクシィ」


 あだ名で呼ばれ、自分からそう呼べと言ったはずなのに無性に気恥ずかしくなったアレクシィ。誤魔化すようにちょっと大げさに周囲を見渡してみせる。


「えーと、そうだ……コレットの言ってたセレクトショップが確かこの辺にあるはずなんだけど……」


 アレクシィはスマホでコレットのおすすめ店舗セレクションを眺めてみるが、どれもこれも店内写真ばかりで肝心の目印になるようなものが見当たらない。街を眺めてみてもそれらしい装飾などもない様子だ。

 二人して往来の中できょろきょろしていると、マリーの視界の端で何かが煌めいた。そちらに意識を向けてみると、「Cheri」と書かれた小さな吊り看板が揺れていた。


「あそこかな……名前はあれで合ってるよね?」

「うーん、ありふれすぎてて合ってるのか不安だけど……兎に角行ってみよう!」


 二人は思い切って重厚そうな木製の扉を開けてみる。

 店内はモノトーンで纏められていたが、意外に明るいな、という印象を抱かせた。狭いながらも、黒と深紅のいかにもといったドレスから、骸骨や魔術の幾何学文様をプリントした軽めのものまで色々と取り揃えているようだ。


「良かった、此処で合ってそうだね! ……にしても、確かにこれはコレットには似合わなさそうだなぁ」


 物珍しそうに店内をしげしげ眺めるアレクシィ。その横で、マリーは一際目立つ位置に飾られたゴスロリ調のドレスの色彩に、何か血が疼いてくるのを感じていた。


「お金は後でコレットが出してくれるだろうし、何着か買っていこうか。……ってそれは流石に……」

「これ、着てみたい」

「いやいやいや、ちょっとそれは普段着には派手だって!それに……結構高いよ?」

「……それもそうか。狙われてる身だし……」


 しょんぼりとした様子で大人しめな服の棚に移動していくマリー。その背中はやけに小さく、寂しく物悲し気でどうしようもないくらい哀れに見えてしまって―—アレクシィは思わず叫んだ。


「あっ、あのさ!親父のお陰でクレカ限度額めっちゃ高いからおれが買ってやるよ!みんなに怒られたらおれが何とかするから!」

「え……えっと……?」

「あー、つまり、だ!着たいものあったら全部持ってこい!おれが買ってやる!」


 清く正しく慎ましく、先生から与えられたもので過ごしてきたマリーにとって、初めて聞く台詞だった。

 事態が呑み込めないで困惑しているマリー。そんな彼女をアレクシィは、じれったいとばかりに更衣室の方へ引きずっていった。


 その陰で、またひとつ何かの影が煌めいた。

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