第一話 薄暮飛行

 パリのセーヌ川は、夕暮れに染まって静かに流れていた。

 川面を渡る風は春の匂いを運び、観光客の笑い声も、対岸のカフェの音楽も、ここでは遠い別世界のようだった。

 そんな川沿いに、黄昏の街を見下ろし空を飛ぶ。仕事終わりの解放感や夜の始まりへの高揚感を漂わせながら、街の往来を行く人々を完全な傍観者として俯瞰する。それは飛行士アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリにとってこれ以上ない楽しみであった。


 ――ふと、水面に違和感を覚える。


 夕焼けの中、川の真ん中をゆっくりと流れていくものがある。木箱かと思ったが、違う。細い手足、薄汚れた服、そして――かすかに光る赤。


「んん?酔っ払いが飛び込むにしちゃまだ早い気がするけど……あれは」


 アントワーヌは空中で軽やかに姿勢を変え、颯爽と影のもとへ舞い降りていく。何度か瞬きしてみたが、あれは矢張り人間だ。それも、まだ子どもじゃないか?


「おっと、これは久々に大仕事の予感がするぞ!」


 今の高度が凡そ40m、多めに見積もって50㎏前後の漂流物を回収する――この程度ならば、ざっと感覚でいけそうだ。彼は重力に身を任せて急降下する。今にも川に落ちる……といったところでその体は物理法則に反して水面と平行に飛んでいき、さっとその子の体を拾い上げた。

 ぐっしょりと濡れた黒髪を払ってやると、思った通り幼さの残る少女の顔が現れた。衣服が水を含んでいるのに軽く思えるその体は青白い――が、まだ鼓動が感じられる。


「……っ、けほっ……あ……」


 うっすら開いたその瞳は、どこまでも吸い込まれていきそうな黒で、アントワーヌは思わず見惚れかけていた。ふるふると頭を振って、直面すべき事態へと思考を引き戻す。

 ここは、僕に彼女が見惚れてしまうような、素敵な目覚めの言葉を贈るべきだ。彼女は不運にも川に投げ出された悲劇の少女、そして自分は彼女にとっての王子様なのだから!


「やぁ、お元気かい? 僕が来たからにはもう大丈夫!」

「……誰……?」


 妙に緊迫感のないその姿に、少女は訝し気な様子だ。


「僕かい? 僕はただの飛行士さ。今は訳アリで愛機を失くしちゃったんだけどね! ところで君は、なんていうんだい?」

「……マリー」

「マリー! いい名前じゃないか! 空から転げて落ちてきたのかな?……なんて。折角のお星さまも、水浸しじゃあ台無しだ。こんなところじゃなんだから、温かいものでも食べに行こう!」


 マリーと名乗った少女は、アントワーヌの調子に半ば気圧されていた。

 戦闘機パイロットの写真でよく見るような、防護眼鏡に帽子の姿は確かに飛行士らしい気がする。いかにもお調子者でロマンチストっぽそうな人で……本当に、この人に救助されて良かったのだろうか、と少し不安になってくる。

 いやそれよりも先に礼を言うべきだろう、と思った矢先、ぐっと体が持ち上げられる感覚がした。


「さ、ひとっ飛びするよ! しっかり掴まってて!」

「え?……は、うぇええええ!?」


 アントワーヌはマリーを抱きかかえたまま、風を切る音だけを立てて屋根よりも高く飛んでいく。

 そこで彼女は漸く気づいた。この人は、道具もないのにずっと飛んでいた!


「え、と、これ、どういうこと!?」

「んー……言うなればヒーロー特有のスーパーパワーみたいな?そう、僕の持ってる秘密の力だよ!」


 二人の体は重力に逆らって、喧騒の中を飛んでいく。物珍し気に写真を撮る人、見慣れた様子で眺める人、そんな周囲は気にも留めずに向かった先にあったのは一軒のカフェ。ふわりと降り立った彼は、そっとマリーを地面に降ろしてやった。


「……はへぇ……」

「どうだい、空から街を眺めてみるってのは!」


 アントワーヌが自慢げにする傍ら、マリーはぷるぷる震えていた。

 飛行士が哀れそうな姿を一瞥してざっと見積もるに、思春期に差し掛かる手前くらいのようだ。このくらいの年齢であれば、せいぜい飛行機に乗ったことがある程度だろう。スカイレジャーなんてこの体格ではできそうもないし、さぞかし驚いたことだろうな。……速度を上げすぎて怖がらせてしまったか?

 はてさて次はどんなことが起こるのが彼女に相応しいだろうか?と思考するアントワーヌの耳に、か細い声が聞こえてくる。


「あの、それより……」

「あ、もしや僕の秘密が気になるかい!? いやぁ、これには積もる話があってね……」

「……寒いんですけど」

「あっ……そうだった! ごめん! 今すぐあったかい飲み物頼むから!」

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