近くて遠い、夢中のひととき

レイニーに楽譜を渡された。


「アードルフとやるはずだった楽譜なんだ。彼は子どもができてトリア中心の生活になるだろう?だから、彼との仕事はまたの機会にして、この曲をルイーズたちとやれたらいいなと思って」

「素敵な曲ね。私はぜひ。マティアスはどう思う?」

「僕もぜひともやりたいな」


屋敷に戻って来ると、2人して譜読みに没頭した。


「お二方、目が悪くなりますよ」


ジーナが明かりを持ってきてくれて、日が暮れていることに気づいた。


「すっかり夢中に......マティアスはどう?」

「つい、集中して時間の流れを忘れていたね。編曲のことも考えるとまだまだ時間がかかりそうだよ」

「いいものが出来上がりそうね」

「お嬢様たちはフルンゼ楽団にいってらしたのですよね?」

「ええ。ああそう、レイニーはとっても元気だったわよ」


かつてジーナはレイニーのファンだったから、からかって言う。


「まあ、そんな古い話を。デニスが聞いたらうるさくなりますのでここだけの話にして下さいね」

「そうね」


すでにデニスには話してしまったのだけどな、と思ったが適当に答えておいた。どうせ、彼女はもうデニスと結婚しているのだ。


ジーナが入れてくれたお茶をマティアスと飲んでいると、レウルスがちょうど帰宅してきた。


「2人共、疲れているようだが、どうした?」

「譜読みをしていたわ。今日、レイニーの元を訪れたの。アードルフとアンサンブルする予定だった曲を私たちとやろうということになったのよ」

「そうか。それにしても、兄貴のことをいつの間に“レイニー”呼びに?」

「今日からよ。気軽に呼び合いましょうということで」

「ふうん」


マティアスを含めてほかの音楽仲間はとっくに自分のことを“ルイーズ”と呼んでいる。なのに、兄が呼ぶのはなにか引っ掛かるのだろうか。


「いずれ、彼は私の兄になる人でしょう?“レイニーお兄様”と呼ぶのかしらと言ったら、おじさんぽいからイヤなんですって。それで、レイニーと呼ぶことになったのよ」

「まあ、仕方ない」

「レイニーと呼ぶのがイヤなの?」

「親し気に呼ぶのが気になっただけだ」

「おかしなことを言うのね。ほかにも“ルイーズ”と呼ぶ人はたくさんいるわ」

「それは、オレがどうこういう前からそうなっていたから.......」

「嫉妬だね」


話を聞いていたマティアスがにこやかに言う。


「いいなあ。そういうの」

「嫉妬がいいの?」

「好きだからこそ嫉妬するのではないかな?大切な存在に自分よりも近づけたくないんだ」

「なんとなく分かる気がするわ」


レウルスもうなずいている。


「マティアスもロマンチックなことを言うのね。あなたって時々、詩人みたい。ディートマルのコテージで過ごした時もそう感じたもの」

「僕はギターを奏でる時に会話しているんだ」

「レイニーも同じことを言っていたわ」


音楽家ならではの通ずるところだろう。全く同じことを言うのは興味深い。


……夕食の場で父と兄にレイニーと3重奏をやるつもりだと伝えると、彼らは特に反対もしなかった。


「クレメンテが帰国した今、マティアス君とルイーズとレイニー君で組むのはなかなか良いのではないか。フルンゼ楽団は私も関与しているのだし」


父はさっそく、新しい公演を考え始めたようだ。


いろいろと悩んでいたが、こうしてみると自分は大変、恵まれていると思った。


(一人でああでもないと悩んでいたのに......感謝しかないわ)


「お父様、ありがとう。レイニーも忙しいのに私たちと組んでくれるのはありがたいわ。私、必ず期待に応えるわね」

「ああ」


食事が終わり部屋に戻ろうとすると、レウルスに引き留められた。


「お茶をあちらで飲まないか?」


食後は忙しいレウルスとお茶を楽しむのが日課となっている。


「ええ」


ソファに横並びに座ると、ジーナが部屋を出て行った。扉は少し開けられている。


受爵が決まり、結婚発表するまでは軽いスキンシップ以外は禁じられているのだ。


「……忙しくなってこうしてのんびりとする時間もないな」

「ええ。でも恵まれているということだわ」

「相手がなにかに没頭することができると、なぜ不安になるのだろうな」

「不安なの?」


レウルスの手が伸びてきてルイーズのくちびるを撫でた。


「キスしても?」


答えるかわりに目を閉じるとすぐに唇が重なった。


「こうして側で存在を感じたくなる」

「分かるわ」


ソファの背もたれにもたれながらレウルスを見つめると、彼は誘われていると感じたのかルイーズをグイと引き寄せる。


「これ以上はダメって言われているでしょう?」

「ちくしょう。なんでこんな制約があるんだ」

「あと少しだわ」


ワザと乱暴な口調で言うレウルスの手を、ルイーズは励ますようにそっと握った。

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