第4話
**事決めの屋(ことぎめのや)**では、またしても会議が開かれていた。
今回の議題も――地方の紛争であった。
「また……大鐘(おおがね)か……!」
重々しい声で、カローがうめいた。
「米六俵と鍬先(くわさき)八足り、人手四日ぶん――それで済ませるから、もう大鐘は返してくれなくてもよい、という話だったのに……」
「ところが今度は、“やはり返してもらわねば困る”と。しかも“償いが足らぬ”ときた」
「言い分がまるで逆だ。使いの者たちの話が食い違っていて、どちらが本当かわからん」
「聞いてるこっちも、頭がこんがらがってきた……」
いら立ち混じりの声が、部屋のあちこちで交錯した。
その中で、アクエは一人、黙っていた。
目を伏せていたが、胸の内では別の火が燃えていた。
王になりたい。
地方の混乱に対して、都から兵を派遣させる。それが膠着状態になれば王の責任が問われる。問われなくとも自分が中心となって動けば・・・。
「こっちで決めたとおりに動かん奴らは、兵を向かわして叩き潰すしかないっ」
アクエの声が、不意に鋭く会議の場に響いた。
一瞬、場が静まり返る。皆、その言葉の裏に潜む毒に気づいていた。
王はその沈黙の中で、静かにため息をついた。
「……姫は、今……どんなじゃ?」
王はカローに尋ねた。
絹――キヌ。
中国では「ジュエン」の音で呼ばれているそれが、日本では「キヌ」と呼ばれる。日本語におけるその呼び方には、どこか素朴な響きがある。キヌは日本語であり、中国から絹が伝来する前から存在した言葉なのは間違いない。ではキヌとは何だったのか?伝来以前から弥生人は絹織物を作っていたのが・・?
ふと思いつくに、「キヌ」は「着る布」、つまり身にまとう布を意味するのではないか。
布(ぬの)という言葉は、「縫う」に由来し、皮や葉を縫い合わせ、繋ぎ合わせて作ったものに用いられた・・・それに対して、身にまとう“衣服ようの布”は、区別され、「キヌ」と呼ばれた――
そんなふうに考えると、妙にしっくりくるものがあった。
……もっとも、それが皆さんにとってもしっくりくるかどうかは知りませんが・・
さて――。
カローは、都の南に広がる機織り職人の屋が立ち並ぶ、その一角に足を向けていた。
パタン、トントン・・とアチコチから無数の音が聞こえてくる通り。その中に、ひときわ賑やかな声が響いていた。「よーみーひーふー!みーいーよーみーよー!」
甲高くも活気に満ちた声が、ひときわ大きな屋の中から飛び出してきた。
「……数を叫んでおられる?」
カローは足を止めた。
その絹織りの屋は、二階建てだった。換気をよくするため、吹き抜けの構造になっている。
窓はすべて開け放たれ、声とともに、熱気が外へ吐き出されていた。
中をといえば、そこには原始的な織り機がいくつも置かれていた――とはいえ、これはすでに「機」と呼ぶほどには進歩していなかった。かと言って、足を投げ出し、その足で張った経糸(たていと)を突っ張って反対側を体に固定する・・・だけの素朴な手法ではない。木の枠を使い、複数人で動かす。少しは複雑な装置・・・部屋には五つの’織り機’が置かれていた。ただ、動いているのは一つだけ。部屋の一番奥――ひときわ目を引く“機”があった。
柱に固定された大きな枠に、何十本もの黄色い経糸(たていと)が、ぴんと張られている。
糸の一本一本には、小さな重りが吊るされ、風がないのにかすかに揺れていた。
そして、その経糸は十本ずつに束ねられ、計八人の女性がそれぞれ担当していた。
彼女たちは、手に木の棒を持ち、その棒には五本の経糸の端が垂れ下がっていた。
姫が、奥で号令をかけていた。
「四三一!二三一」
椅子に座り、姫は小さな杼(ひ)を手に取り、横糸を滑らせるように通していった。 声に合わせて、織り子たちは棒を巧みに動かし、経糸を持ち上げたり、下げたりしていた。
単純な動きに見えて、織りのリズムと声の符号がぴたりと一致していなければ、布は乱れ、すべてがやり直しになる。
空気は、熱い。
秋も深まり、外には虫の音が鳴いているというのに、屋内のその一角では蒸気のような熱気が立ちのぼっていた。
十人の若い女たちは、額に汗をにじませ、声もなく黙々と手と足を動かしている。
「もうちょっと、頑張ってくれ。それ、一三五八!二四六七──一一二四五七!」
姫の声が響く。
王や大臣にはときにわがままをぶつける姫だったが、目の前の織り子たちには驚くほど優しかった。彼女の一声に、経糸(たていと)を握る女たちの目が真剣さを増し、何人かが糸をぐっと持ち上げる。
「もうちょっとじゃ、それ──二三四五八!一二四七八!」
部屋の熱がさらに高まる。吹き抜けの二階には十人ほどの女たちが集まり、姫たちの機織りの様子をじっと見つめていた。ただ、なぜか一定の距離を置いて。その中央に立っていたのは、ジュクックだった。彼が興味にかられ、ちょっと足を前に出した途端・・
「まだじゃ! まだ来るな、まだ見るなっ! もうちょっ……とじゃっ!」
その声と同時に、階段を登ってきたカローが、顔をのぞかせた。
「……?」
そのまま、何をしているのかと訝っていると、姫の数を叫ぶ声が途切れた。代わりに・・
「よし、近こう寄れ」
と姫の声がし、続いてわあっという歓声が巻き起こった。ざわめきの中で、ジュクックが思わず舌足らずに叫んだ。
「しゅ……しゅごいっ……!」
「すごい、すごい!」「こんなの、初めて見た!」
織り子たちは一斉に口々に驚きの声をあげていた。
カローが織り機のそばまで歩み寄ると、姫がその横に立っていた。
みんなの視線の先には、織り始められたばかりの織物――それが、輝いていた。
青地に、黄色いひし形の模様が、四つ、ぴたりと整列している。
それは、見たこともない文様だった。というより綾に織り込まれた文様など見たことは無かった。綾は無地か縞と決まっていた。
「しゅ……しゅごい……」
カローも思わず、舌がもつれてしまった。
「み、みごとな綾じゃ……! ど・・どうやって、こんなものを……?!」
姫は肩をすくめて、さらりと言った。
「それは、試しの綾じゃ。思いついたから、やってみたのじゃ。次の春には、絹で本式に織るのじゃ」
部屋はどよめいた。織り子たちも、ジュクックも、驚きのまなざしで姫を見ていた。
「これは、どうやって作ったのだ?」
カローの問いに、ジュクックが落ち着いた微笑みを浮かべて答えた。
「すごいだろう。姫が考えたのじゃ」
「いや、考えたのより、できたのがすごい」と、ひとりの織り子――オリコが言った。
「どの糸を通すか、通さないか。姫が、全て、頭の中で覚えておって織り子たちを動かして作ったのじゃよ」
「な・・なんやて・・言っとることがよう分からん・・」
「ワテらも分からんまま動いただけや!」と、他の織り子たちも興奮しながら言った。
「こんなことができるのは、姫さましかおられん」
そのとき、誰かがぽつりとつぶやいた。
「綾姫さま……」
その言葉が風のように広がり、部屋のあちこちから、声が上がった。
「綾姫様!」「綾姫様!」
「……わらわの名は、アヤではないわ」
姫はそう言ったが、その頬には、まんざらでもなさそうな色がにじんでいた。
「それに、これはわらわの力ではないのじゃ」
と言うと姫は左上を見た。その場にいたみんなが、そこに何が居るのか、何が聞こえるのか知らなかった。姫を含めて。しかし、姫だけがそれを感じることだけは皆が知っていた。
カローが屋しき道(豪邸通り)の入り口にたどり着いたときには、すでに姫が先に事決めの屋に着いていた。
コッコッと木靴を鳴らして階段を踏みしめ、中へと入ってくる姫の姿を、中にいた者たちは言葉もなく受け入れた。
「なにを揉めておる。どれ、聞かせてみい」
中にいた十人ほどの使いの者たちは、姫の登場に一瞬、沈黙したが、すぐに口々に言い争いを始めた。
「そっちの村が田の水を……」
と、あるものが村ぐるみの水盗人と攻め立てた。すると相手側は
「いや、あいつが勝手に堰を崩して……」
と、一人の人物のせいだと言い張った。
「川下じゃと言って、そっちの村はこっちを見下しておる!」
姫はそれらの声に一切動じることなく、腰に手を当て、ぴしゃりと言った。
「水、じゃと? そもそもその田んぼは、誰が作った?」
「……う、うちです。己たちで作りました」
「ふむ。その田んぼ作りの指図の者を、どこから送ってもらったか、覚えておるか?」
「……えっと……あちらの村、です」
と、水を取られた側がとった側を指さした。
「ならば借りがあるわ。よく思い出して考え直すのじゃ。どうしても米が足りなんだら都に蓄えがあるわ。むやみに争うでない」
その言葉に場が静まり、誰も口を開けなかった。
「他には?」
「すぐに暴れる者がいて……」
「暴れる? ふむ。お主がどこの村のもので誰のことを言っているかはわかっておるぞ。そやつ、あちらの村の生まれじゃろ?」
「はい……まあ……」
「ならば、あんなのを生んだのが悪い。村の業(ごう)というものじゃ。あっちへ行ってそ奴が暴れた分だけ暴れて返せ」
――現代のモラル感覚とはややズレがあり乱暴ではあったが、当時の人々には普通で説得力があった。
「山燃えの件は済んだか?」
「まさに、そのことでございます。そちらの山からこちらの山へと燃え広がり……」
「その山燃えのおかげで猪がたんと捕れたよな? わらわの覚えに間違いがなければ、そっちの村で七頭、あっちの村で五頭じゃ」
姫は通りすがりに誰かの話をちらっと耳に挟んだだけでも決して忘れなかった。
「……たしかに」
「ならば有難がれい。火のカミュイのいたずらは時に恵みとなる。災いとて返せばありがたいのじゃ。山燃えがなんじゃ。どえらいとこ、失のうたか?実のところの損はキノコくらいのもんじゃろうが」
姫の言葉に、使いの者たちはうなずき合い、文句を言っていた者までもがしおらしくなった。
「それから、あの女のこと。あの男の妻が道で子を産みそうになった時、となりの誰それが助けた。あの女は、そちらの女じっゃたな?」
「はい、そうです!」
「よい行いは、忘れられてはならぬぞ。言い争う前に、恩を思い出すのが話のスジじゃ」
姫はそう言いながら、ふと左上に目をやった。
その視線の先には何もなかったが、彼女の頭の中では、誰にも見えぬ精霊のようなものが囁いているようだった。
アクエが小声でつぶやいた。
「……また、見えぬものに聞いておる……」
姫の耳は、鋭かった。
「何か言ったか、アクエ?」
「い、いえっ、なにも……!」
アクエは肩をすくめ、視線をそらした。こうなると、もう誰も姫に逆らえなかった。
事決めの屋にいた者たちは、次々にうなずき、謝り、折れ、争いはすべてあっという間に片付いた。
カローはその様子を眺めながら、すっくと立ち上がった。
「よし――」
そして、一同に向かって指を立て、例のしわがれた声を押し出して妙に役者ぶっていった。
「大鐘の貸し借りの揉め事は、早う終わらせるのだ! ちょっとした損得にこだわる者は、都に呼び出して吊るすかもしれぬぞ!」
皆、納得の表情でそれを聞き、アクエを除く誰もがうなずいた。
姫が事決めの屋であれこれ片付け、鼻歌まじりで機織り職人の屋へ戻ってきたときのことである。
機織り場は昼の日を受けて、しっとりとした木の香りに包まれていた。二階へ顔をだすと、織り子たちはさきほど姫が使っていた機織りのあたりに集まっていた。誰かがその中心にいる様子で皆、それらを向いていた。誰も何も言わず静けさだけがそこにあった。
(……?)
不審に思っいつつ上がり込むと、皆、姫に気が付いて振り返った。
次の瞬間、奥の織り機のそばに、異様な男が座り込んでいるのが目に入った。
その男は、浅黒い肌をしていた。
身なりは異国風で、派手な柄の布を腰に巻き、頭には小さな布帽。
目はぎょろりと大きく、なにより――鼻が、異常にデカかった。
まるで獣か鳥かというような、堂々たる鼻っ柱が顔の中心に構えていた。
「なんじゃ貴様っ!」
姫はぴたりと足を止め、ぴんと背を伸ばした。
「ビーアクでございます」
「知っておるわ!ここは男は立ち入ってはならぬ所じゃぞ! 勝手に上がりこんだお前は、許されぬぞ!」
声は鋭く、空気が一瞬にして張り詰めた。
男はすぐさま頭を下げた。だが、顔を上げるや、にやりと歯を見せて笑った。
「申し訳ありません、姫。どうしても……どうしても拝見したくて、たまらず上がってきてしまいました……」
鼻はなおさら目立ち、謝っているのか目立っているのか分からなかった。
「下でうわさを聞きました。姫が、新しい織り方を見つけられたと」
「……うむ……」
「そして、私は見たくてたまらなくなったのです、姫が見つけたというその織りを。あの賢い姫が作ったとはどんな織か!そして、今、見てしまいました……この見事なる織り! なんという紋様! なんという色! そしてこのひし形の並び、まるで大陸の雲の模様のよう……これは……素晴らしい!」
大げさな身振りで両手を広げ、ビーアクと名乗った男は、興奮ぎみに声を上げた。
「東の果てまで探しても、これほどの絹はありません。天の香りがするようです」
「……」
姫はしばし口をつぐんでいたが、やがてふいっと顔をそらした。
「……ならば、まあ、よい」
「はいっ?」
「入ってきたことは、まあ、よい」
「ありがたきお言葉……!」
姫は小さく咳払いをした。
「そち、言っておったな。大陸の雲の模様、と」
「はい! まさに空を渡る風の道のような……」
「……うむ、それ、わらわも思っておった。風と雲と、黄の帯と……な」
「その感性、まさに姫にして姫たる所以!」
「……ふふ、そこまで言うか。うぬ、ちと話ができるな」
怒気はどこへやら、姫は頬をほころばせた。
もともと、褒めおだてに弱いのだ。
織り機の隅にしゃがみこみながら、姫はちらとビーアクの巨大な鼻を見やった。
(見れば見るほど妙な鼻じゃな……)
だが次の瞬間、姫はくるりと背を向けて、さも平静を装うように言った。
「……まぁ、せっかく来たのじゃ。座って、茶でも出させてやろう」
それを聞いて、ビーアクは両手を突いて深々と頭を下げた。
「恐れいります。有難きしあわせにございますっ!」
織物の屋に、どこか異国の風が吹いたようだった。
・・・茶が冷めきらぬうちに、ビーアクは商売の話を切り出した。
「これは……今までのものとは、幅の長さが違っておりますな」
そう言いながら、彼は布の幅を両手で示した。指先から指先まで、ゆっくりと広げてみせる。
「ご覧ください、この広さ。これまでの品はすべて、八寸幅でございました。しかしこれは、じゅ・・八と二寸幅と見えます」
「じゅ・・?・・お主は今、なんと言おうとした」
「じゅ・・じゅは・・晋の国の言葉で、大きいという言葉です」
姫は何も言わず、ただ頷いた。
「んー……では、これが出来上がった時の仕入れ値も、それなりに……いや、むしろ、そうですね……今までの取引で考えますと、ひとまず――」
どうにも言葉がもたついている。
明らかに、値をごまかそうとしていた。
織り子たち――とくにオリコたちは、その様子に気づきながらも、言葉を挟めなかった。
なぜなら。
「幅が八と二、長さが八と八、だったら面のひろさは……?」に
ひとりがぽつりとつぶやいた。すると、皆、口を閉じてしまった。
今までの品は全て八寸幅と十尺長。今回は十寸幅・・面積の数え方が分からない。なぜなら、この時代は八進法だったから。ビーアクは十進法を知っていたが知らないふりをしていたのだった。
八進法は、「ひー、ふー、みー、よー……」と数える中で、八が一巡するのが基本。
「十」という数もまた、「八と二」として捉えられていた。
計算が、できないのではない。
“どう考えたらいいのか”が、まったく頭に浮かばないのだ。
誰もが黙りこみ、布を見つめたまま動けなかった。
――そのときだった。
姫が、ぽつりと口を開いた。
「八寸が八尺が二つと二寸が八尺が二つと同じに決まっとるじゃろうが・・」
その声は静かだった。けれど、その場の空気を一瞬で支配した。
ビーアクの目が大きく見開かれる。
織り子たちは、一斉に姫を見た。
「……は? 」
「面の広さのことじゃよ」
「そんなすぐ分かるのですか?」
「うむ……思えば、考え方が分かる。考え方が分かれば、頭の中でできる」
姫はふと、左上に目をやった。
その視線の先には、誰の目にも何もなかった。
だが姫の中では、いつものように、何かが“そこ”に感じられていた。・・ 精霊。あるいは、記憶の精。あるいは、ひらめきの霊、知恵のかたち。
その正体は、誰にも分からなかった。ただ確かなのは、姫がそこに目をやるとき、何かが姫の頭に“下りてくる”ということだった。
「八寸が八尺が二つと二寸が八尺が二つ……」
その言葉の意味は、オリコたちにはさっぱり分からなかった。
けれど、ビーアクには――すぐに分かった。
姫の声が、さらに続いた。
「寸で言うと、長さのほうは八が八と八とが二つじゃ」
ビーアクは、その瞬間、ぞわりと背筋を冷たいものが走るのを感じた。
血の気が、引いた。
――これは、ごまかせん。十進法法を知らない人間に計算ができるなど聞いたこともなかった。 商人としての嗅覚が叫んでいた。これはすでに“得な取り引き”ではない。 自分の嘘が完全に見抜かれている。 それだけでなく――
(この娘……これは、ただ頭が良いという次元では……)
「姫は……一体、何者なのです……」
思わずこぼれたその声は、もちろん姫の耳に届いた。
だが姫は、まるで風でも聞いたかのように、それを受け流した。
そして――ふんわりと微笑みながら、こう言った。
「何者じゃと?」
わずかに口角を上げ、ビーアクをじっと見据える。
「わらわは、姫じゃよ。……わらわの名を口にする者は、島流しじゃぞ」
三層の塔は、二階に床板を張る段に入っていた。
とはいえ現代でいう板というような板ではない。節くれだらけ、歪みだらけ、凹凸もある。なにせカンナなどという気の利いた道具などまだ無い。長く反った、薙刀のような大刃物で、削って削って、削り出したものだった。
その日、男たちは、塔のてっぺん――三層目の横柱を磨き込み滑車原理をつかって、エイヤー、うんうんと勢いよく声を張り上げながら、板を引き上げていた。作業場はにぎやかであり、どこか神事めいてもいた。
三層のさらに上には、直径三十センチほどの柱が、中途半端な高さでぴょこんと立っていた。屋根はない。雨風のまま、吹きさらし。おそらくは、建築物としての用途とともに建築技術の開発そのものが半ば目的だったのであろう。言ってみれは試しの塔であった。
中段――二層目には、やや太めの一抱え以上の柱が、どんと立ち、まっすぐに下から伸びていた。土台から一本だけ二階に伸びているその柱は、いかにも頼もしげに見えた。
一層目には、さらに驚くほどの太さの柱が据えられていた。一本一本が直径1メートルを超える大径である。これを二本、二階へ伸びる柱としっかりと組んで、二層目に伸びる柱を補強していた。その巨大な組柱は、塔の四隅にそれぞれ据えられていた。一層部分の広さは四方は一辺が10メートルほどあった。
見上げると、まさしく空へ突き出ているかのようであった。
そこへ登るために、太く頑丈な階段が据えられており、二階の床板はすでに敷かれていた。
棟梁たちの声が空に響いていた。
「うーん、ほいっ!」
「よういしょ、そら行けぇ!」
滑車に吊された板が、ぐらりと揺れながら二階へと吸い上げられていく。
塔の真下。そこには、王をはじめ、アクエ、姫、ジュクック、カロー、コブウ、ショワと、都の名だたる面々が顔をそろえていた。
みな、見上げていた。
誰もが何かを思っていた。
ある者は心配そうに眉をひそめ、ある者は興味深げに首を伸ばしていた。
「……わらわは、あんなところに、登りとうないぞ」
姫がぽつりと言った。
肩をすくめ、まるで悪寒でもしたような仕草だった。
「俺はやりたいなぁ」と、ショワがニヤついた。
お腹の前に、なにか丸いもの――たとえば円盤のようなもの――を抱えるようにし、両腕をひねって、くるりと体を回して見せた。
「ほれ、こうして……民が皆、おののいてなぁ……次々に、ひれ伏すぞ」
「もちろん、それをするのは、王様がふさわしかろう」
と、ジュクックが穏やかに言った。
「いや、巫女にやらせるべきじゃ」
アクエがすかさず返す。
「そげなことしたら、巫女が偉なってしまうがな」
カローが渋い顔をした。
「いや、偉なるちゅうこたぁ、ないて」
アクエも譲らない。
「ということは、もっともふさわしいのは……姫ということになるのう」
にやりと、王が結んだ。
「いやじゃ、いやじゃ、民を鏡で驚かすなど、そがぁなアホらしいこと、わらわはせんぞ!」
姫がむきになって怒った。
「いやいや、ティエンのカミュイを拝むには、これ以上のやりようはありませぬて」
ジュクックがまじめくさった顔でうなずく。
「そげなこたぁ確かにそうじゃ。空におわすカミュイこそ、まことのカミュイじゃけぇの。われらの拝むべきお方じゃ」
カローまで、ありがたい顔をして言う。
だが、その場にいた誰もが――口には出さなかったが――分かっていた。
この塔のてっぺんに登るのは、決まっていたのだ。
それは、姫の婿となる男である。
だが、それを口にしてしまえば、姫がまたムキになる。
「婿だと? わらわは遠くへ嫁に行きたいのじゃ、ここは嫌じゃ、塔も嫌じゃ」と、決まってそう言いだすのだ。
だから、誰も言わなかった。
ショワが、ふと口を開いた。
「姫、あの地に立っとる柱……なんであがぁに、バカでかいと思うておられますか」
「知っとるわい! はじめはジッちゃんが、大鐘を吊るすつもりであったのじゃ」
「ふっ……知っておられましたか」
ショワの口ぶりは、つねに丁寧であった。だが、どこかいつも、相手を小馬鹿にするような響きがあった。
「大鐘と言えば……わらわの知らぬ間に、なにやらおどろおどろしげなものが……」
「おや、大鐘の件をご存じなかったとは……」
「し、知らぬわけではない! 聞いておるぞよっ」
「わたくしは……この目で、見ました」
「見たとな!」
姫の顔が、きゅっと強ばる。
「なにかこう……恐ろしげなカミュイが、憑いておるような気配でしてな」
姫は、黙った。
「コブウなどは、自分の足が勝手に動いて、もう少しで車に轢かれそうになったのです」
「な、なんと……!」
「それは今、シャーマの洞穴の中にございます。シャーマが祈りに祈って、命がけで封じたのでございます。昨日まで、死にかけとったとか・・」
「そ、それじゃ、今は……」
「……なんとか、おさまっているようです」
「む、むぅう……」
姫は腕を組んで唸った。
「ただ……」
「?!」
姫が、ぱっと顔を上げた。
「夜になると、なにやら……雷の唸りのような音が、聞こえるとか……」
ショワは、姫がじっと自分の顔を見つめてくるのを、しっかりと感じていた。
その目には「続きを言え」と、はっきり書いてあった。
だから、ショワは――
「……聞こえないとか」
と・・・じっくり間をおいて言った。
夜。
月が白々と地を照らしていた。
都の外れから三百歩あまり、荒れた野がひらけ、風もなく静まりかえっている。
姫は、ジュクックを伴い、その荒野をそっと歩いていた。
目指すは、ぽつんと離れて建つ、シャーマの家。あの、大鐘――いや、“何か”が封じられたという洞窟のある場所であった。
「うなる音が聞こえたと言うではないか。それを、確かめに行くだけじゃ」
「ジンズブーリューウェイチャーンジーシァ―……君子、危きに近づかず・・にございます」
「わらわは姫じゃ。都が危うきとあらば、知らぬではすまぬ」
「ならば、噂を知っているだけで十分ではござりませぬか」
「お主が怖がりすぎじゃ」
「姫が知りたがりすぎなのでございます」
「ええい、ここじゃ音が聞こえぬ!」
姫は、びくびくするジュクックを引き連れて、シャーマの家の正面までやって来た。
「戸を外すのじゃ」
「い、いや、それは……」
「では、シャーマを起こすのじゃ」
ジュクックはしぶしぶ戸を叩いた。
「シャーマ……おい、シャーマ……」
返事はなかった。
姫は戸にそっと耳を当てた。
「……唸りの音など、聞こえぬ。ただの噂じゃ。戸を外して中に入り、シャーマの話を聞くのじゃ」
唸りなど聞こえないと分かって安心したジュクックは、ようやく動き出し、戸をガタガタと外した。中に入ると、手元の土製の灯火器に火をつける。
「シャーマ……どこじゃ……」
そのとき――
奥から、何かの唸りのような音が、かすかに聞こえてきた。
二人とも、ぴたりと止まった。
「……いびきか?」
土の灯に照らされた室内には、不気味な土偶がいくつも並んでいた。揺れる灯のせいで、それらが生きているように見えた。
姫は一度立ち止まり、右斜め上を見た。そしてまた、歩を進めた。
シャーマは、建物の一番奥、洞窟の前に、布にくるまって眠っていた。
……だが、いびきはかいていなかった。
「……じゃあ、この音は……」
ジュクックが言う。
「カゼの音なのか……?」
「シャーマに聞くのじゃ」
だが、どれだけ呼びかけても、シャーマは目を覚まさなかった。
「帰りましょう……姫…」
「そうも怖がることはない。シャーマが寝ておる。もし、もののけが居るなら、こやつはもうとっくに死んでおるわ」
そのとき。
「……しめ縄を、外せ……」
シャーマが、寝言のように呟いた。
「なんじゃ……?」
「しめ縄を、外せ……」
ジュクックが肩をゆさぶった。「シャーマ、起きろ!」
「しめ縄を、外せ……」
「しめ縄を外せ? そがぁなことをしたら……!」
ジュクックがふらりと立ち上がった。
姫は右斜め上を、じっと見た。
「ジュクック、やめるのじゃ。しめ縄を外してはならん!」
「……いや、体が……勝手に……!」
ジュクックの体が、ゆっくりと洞窟の扉へ向かって動き始めた。
姫は咄嗟に飛びつき、ジュクックにしがみついた。だが、ジュクックの体は重かった。
そのとき――姫の目が、右上の闇に何かを捉えた。
「……あっ! お前たちっ!」
唸りの音が、甲高くなった。
その瞬間、ジュクックの体に力が戻った。姫の腕を借り、なんとか後ずさる。
音は、どんどん高く、鋭く、鋭くなった。
二人は走り出した。
土の床を蹴って、必死に入り口へ向かう。
姫は何度も、何度も、後ろを振り返った。止まりかけるたびに、ジュクックが腕を引いた。
「シャーマなど、放っておいて早く逃げねば!」
姫は引かれるまま走った。
「……あの者たちが……あの者たちが……」
姫は、泣きながら、闇の中を走った。
翌朝。
都のはずれ――川のほとりに、十人ほどの人々が集まっていた。
目的はススキである。
ススキは、飯を炊くにも、暖を取るにも、なくてはならぬ焚き付けだった。
都では、どこに生えるススキを、どの屋敷や織場、鉄打ち場、製材場で使うか――その割り振りが、古くから決められていた。
だが、今年は様子が違った。
夏の嵐があまりに激しく、例年の場所には、ほとんど姿を見せなかったのだ。
「足りるかの」「いや、こりゃ足りぬな……」
人々は、遠くの地平を指差していた。
「あそこ」「そこと、そっちにも……」
すすきらしきものが、風にゆれていた。
けれど、それがどれだけあるのか、よく分からなかった。
遠近が、掴めない。草原は、地と空のはざまに溶けていた。
そこへ。
姫が、ジュクックを伴って現れた。
人々は、目を見開いた。
姫が来た。姫なら、きっとこの状況の問題を、あっという間に解いてくれる。
誰もが、そう思った。
姫は、問題の趣旨を聞かれると、口をもごもご動かした。
「ええ……と……」
長く、考え込んだ。
人々は驚いた。姫がこうして、長々と思案に沈むのを見たのは、初めてだった。
いつもなら、こういう場面では、すぐに「こうじゃ」と言い切っていたのに。
姫は、ときどき左斜め上を見ては、ため息をつき、また呆然とした顔に戻った。
ススキ刈りに来ていた一人、シバスケという男が、そっとジュクックに聞いた。
「姫は、どうされたのじゃ?」
ジュクックは、いつもの穏やかな笑みを浮かべたまま、ただ「ううむ……」と唸った。
姫は、すとんとその場に座り込んだ。
「……難しいことに当たれば、現れてくれると思ったのに……うう……」
風にススキがざわめいた。
人々は、心配そうに姫を囲むように立ち、誰も口をきかなかった。
やがて、シバスケが前へ出た。
「姫、ワシらがいつでも、姫をお助けしますぞ」
とは言ったものの
「姫がお悩みなら、ススキのことはワシらが考えますけぇ」
「ええと……あそこの一本松から、あの池までが、どのくらいじゃったかのう……」
「川三つぶんじゃったかの」「いや、五つじゃろ」
皆が口々に言う。ばらばらだった。
姫が、ふと口を開いた。
「……靴づくりの屋の端からカムリ作りの屋の端までくらいじゃ」
みんな、少し顔を見合わせた。
「三つの歳のころ、蛍を見に行ったことがある。みんなでな。……間違いなく、覚えておる」
「おお……さすが姫さま!」
ふだんは「姫」と呼んでいた者たちが、そのときは「姫さま」と呼んだ。そして口々に姫さま姫さまと囃し立てた。
その声に、姫は胸がいっぱいになった。そして恥ずかしいので、涙をこらえた。
アクエの家の「タメツ間(食堂)」には、朝の炊きたての栗ご飯の香りが漂っていた。
その空間はまだ土の床。囲炉裏が八か所にあり、一番奥の囲炉裏がアクエ一家の席。他の囲炉裏は、下の者たちが自由に使っていた。
朝早くから、皆が栗ご飯を頬ばっていた。
「うまいのう」「ほんに、よう炊けとる」
下の者たちは笑顔で飯をかき込んでいた。
アクエは、その様子を黙って睨んでいた。
やがて、すっと立ち上がると、一人の男の手元から茶碗をひったくるようにして取った。そして、栗ご飯を一口。
箸を持つ手が止まる。
「……よし、飯の時間は終わりだ」
ぱん、と手を打った。
「えっ?」「まだ、ちいとしか食うとらんのに……」
ざわつく下の者たちに、アクエは一言。
「さっき占いに出た。今日は雨が来る。すぐに山へ、キノコ採りに行け!」
「もったいない……」「あとちょっとで……」
不満の声を無視してアクエが再び手を打つと、皆、しぶしぶ立ち上がった。
人がはけると、アクエは妻ツマエに向き直った。
「やつらの飯に、塩を入れるな」
「え? なんで?」
「なんかこう、腹が立つ。あいつらには、マズいもんを食わせとけばええ。あく抜きしてない栗でも放り込んどけ」
「そんな……」とツマエは目を伏せた。
すると、囲炉裏の横で栗の皮をむいていたショワが、茶碗を掲げて言った。
「せやせや! ワテらだけが旨いもん食うのや! わっははっ」
アクエの弟や妹たちも、それぞれ反応を示した。
「それやそれや!」
「そんなん可哀そうやないか?」
賛成もいれば、渋る者もいた。
ショワは箸で栗をつまみながら言った。
「見せびらかして食うたるんや。“これが上の味やぞ〜”っちゅうてな!」
ツマエは眉をひそめた。
「……そげなこと、あからさまにしたら……いやがられまする」
ショワが、栗を口に放り込みながら弟に言った。
「だからや、わざとらしゅうしたらアカン。『ああ、塩加減まちがったわ〜』とか言いながら、ホンマはわしらだけ旨いもんを喰う。それが、ええやり方やで」
「ほぅ……お主、よう分かっとる。わっははは!」
アクエが大声で笑いながら、腕を組んだ。
「こうして違いをつけてこそ、位ある者は楽しめるんじゃ。わしが王になったら、これを国中に広めて──」
そのときだった。
ぞくり、と。
アクエの背に、冷たいものが走った。
空気が変わった。タメツ間の煙が、ふと揺れたように見えた。
アクエがゆっくりと振り返る。
――そこに、シャーマが立っていた。
いつからいたのか、誰にも気づかれずに、ただそこにいた。
アクエは、普段どちらかと言えばシャーマを下に見ていた。
だが、このときばかりは、思わず立ち上がるのをためらった。
重い威圧。言葉にならぬ“気”のようなものが、彼を覆っていた。
シャーマは、不気味に笑んだ。
「……ワシはな。お前のような者が、好きじゃぞ・・・」
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