第5話

 都の真ん中、三層の塔の正面には、広場があった。

 石で縁取られたその空間は、ちょうど現代でいえば50メートルプールほどの大きさ。

 地面の精霊へ祈りを捧げる場であった。

 この儀式は、古代の素朴な祈りと、中世のような秩序だった形式が入り混じったものだった。

 その朝も……満月の明くる日……都の主だった者たちが揃って広場に集まっていた。

 広場の中心には、細い枝を組んだ素朴な長机があり、土器に盛られた食べ物が、巫女の少女たちによって供えられていた。

 広場の周囲には、百人近い人々が並び、それぞれ手に小さな盃を持っていた。

 乙女たちが順に酒を注いで回る。各人、それぞれに

 「見直し給え、聞き直し給え」

 と、一杯目は勢いよく地面へ撒き、二杯目を自ら呑んだ。

 全員がその作法を終えると、王が立ち上がった。

 広場の内へと少し進み、膝をついた。

 「恐れ多くも大いなる大床(おおとこ)のカミュイよ、我らが罪を述べる様を、良し良しと聞し召し、その心にわだかまりつつある怒れる心を直し給え。……そして、我らの願いを聞き入れ給え」

 「……オー……」

 王が深く頭を下げると、他の者たちも一斉に頭を垂れた。

 その瞬間。

 広場の地面の中央――わずかに、何か黒い影が現れかけた。それは地面に模様のようなものを描きはじめ、巨大耳のようにも見えた。

 ……が、すぐに消えた。

 王が広場の外へ戻ると、カローが言った。

 「罪述べの人、アクエよ。罪を、のべよ」

 これは、いつもの流れだった。

 広場に進み出たアクエが、手をついて神妙に一礼した。

 「この者たちは、一人残らず、罪があります」

 一瞬、空気が止まった。

 「この者たちは、偉くない。もっと後ろへ下がるべきであって、もっと、みすぼらしい服を着て、もっと、痩せていなければならないのです」

 広場の外。

 広場には主だった者たち以外は入れないように縄が張ってあった。そこには大勢の都の人々が集まっていた。彼らはめいめい自分の罪を小声で述べ、願い事を唱えていた。その奥で、シャーマがじっとアクエを睨みつけていた。

 「何を急に言い出すかっ!」

 カローが怒鳴った。声が広場に響く。

 だが、思いがけず、アクエの言葉に賛同する声も上がった。

 「アクエ殿の言うとおりじゃ! 偉い者は道の真ん中を歩き、ヘボい者は端じゃ!」

 「そんなくだらん話があってたまるか!」

 「仰せの通りにいたします……」

 主だった者の中でも地位の低い一人が地面に額をつけたのをきっかけに広場のあちこちで口論が始まった。

 「お前こそ端を歩け!」「貴様こそヘボじゃ!」

 罵り合いが次第に掴み合いに変わる。

 姫は、最初のうちぼそりと呟いた。

 「……めんどくさいの」

 だが、ジュクックは横で笑顔のまま、額に汗を浮かべていた。

 「これは……ただ事では、ありませぬ……」

 騒ぎはどんどん膨れ上がった。一人の男が小石を掴んで立ち上がった。

「お前など偉そうに髭を伸ばすなっ」

 そのとき。

 姫が立ち上がった。

 「よいか!」

 鋭い声が、広場のすべてを黙らせた。

 「この国には、田んぼにできる地が、いくらでもある」

 姫は両手を腰に当てて言った。

 「都のまわりだけでも、兎坂のふもと、八手野(やての)、尾流川(びるがわ)、赤塚のくぼ地、波佐の沼地、かしの村……」

 その場にいた者たちが、ざわ、と空気を変える。

 「わらわは、そのほかの地につてゆえば、八の八の八の八の八が八……より多く、数え上げることができるぞよ!」

 姫の声は、まるで雷が上機嫌で鳴っているかのように響いた。

 「都が気に入らぬ者は出てゆけ! そして、田んぼを作ろうと待っておる人々を助けるがよい! その国で偉くなるも、ヘボくなるも、好きにするがよい!」

 広場にいた百人が、息を呑んだ。

 沈黙。

 「……アクエよ」

 姫が低く言った。

 「たわけたことを言って、民を煽るでない」

 アクエは口を開こうとしたが、言葉が出なかった。

 唇を噛み、黙りこくった。

 ジュクックは、かすれた声で呟いた。

 「……姫、おみごとであられます……」

 姫は、答えなかった。

 今回は……いつものように、右斜め上に“あの気配”は、なかった。

 それが、少し寂しかった。

 ――いや、むしろ……不安だった。


 橋を直していると聞いて、姫はジュクックを伴って見に出かけた。

 その橋は少し傾いており、十人ほどの者が綱で引っぱりながら、なんとか水平に戻そうとしていた。

 「おお、やっとるのう」

 ジュクックは目を細めて言った。

 「それっ、柱をかえっ!」

 棟梁ががなりたてた。折れた柱に添えられて新しい柱がかわれようとしていた。

 姫がそちらを見ると、橋の下では柱の根本のまわりに土手が築かれ、水が入り込まないようにされていた。

 さらに下に三尺ほども掘られた底に、若い男が、柱を抱え身を寄せるようにして立ち、その足もとに同じく柱を抱えた若い女がしゃがんでいた。周りには木製のスコップを持った男たちがいて、そして今そこに土が投げ込まれようとしていた。

 姫の目が見開いた。

 「なっ……なにをしておるかーっ!」

 姫は土手の坂を駆け下りながら叫んだ。

 「お前たち、正気かっ! そがあなこと……! 人柱ゆうたら、死にかけたジジババに決まっとるじゃろがーっ!」

 土にまみれた男女は、何も言わずじっとしていた。

 作り頭(つくりがしら)が近寄って、顔をしかめながら言った。

 「この者たちは……罪を犯しましたゆえ、その罰として……」

 「ばか者っ」

 姫は棟梁をにらみつけて怒鳴った。

 「そんなことを決めてええのは、都の長たちじゃ。お前が勝手にやることではないわっ!」

 ジュクックが苦笑いしながら、しかし低い声で言った。

 「人柱なんぞ……わしらの耳にも入らんうちにやったとあっちゃあの。そのようなことしたら、お前たちが次の人柱ぞ」

 作り頭は黙った。

 その時、背中の方から声が聞こえた。

 「しかしまあ……今こうして直してしまった方が、お安う済みますがな」

 姫が振り返ると、橋の麓にビーアクが立っていた。

 車に乗り、車引きと護衛を合わせて五人。

 そのうえ、見覚えのある娘たち三人──オリコを含めた織り子たち──を連れていた。

 「お前……なにをしとるんじゃ」

 姫は険しい声で聞いた。

「なにを・・と、言われますと?」

「オリコをどこに連れて行くのじゃ」

 「この娘らが、織りの広さをごまかそうとしたもんやから」

 ビーアクは平然と答えた。

 「罰と、あと見返りを兼ねて……わたしが引き取らせてもろうた」

 「そがあなこと、ゆるされるはずがなかろうがっ!」

 姫の声が、河原に響いた。

 ジュクックも静かに言った。

 「王が、連れて行ってもええと、言うたんか?」

 「言うてはおらんがな」

 ビーアクは肩をすくめた。

 「けんどなあ……本人らが従ってておる。そう言うとる」

 姫は腰に両手を当てた。

 「織りの広さは……わたしが、今ここで、計り直してやるわいっ!」

 するとビーアクは、護衛に目配せし、娘たちが抱えていた絹布を地面に広げさせた。

 淡い光沢のある布の端には、目印の線がつけられていた。

 「どうぞ。測ってくだされ」

 ビーアクは懐からメモリのついた竹を出して姫に渡した。8進法の物差し・・

 幅が八寸と三寸と三分・・長さが八尺と六尺と七分

 「う……うう……」

 姫は口の中で唸りながら、布の上にしゃがみこんだ。

その時、見えない精霊のかすかな気配が感じられた。姫は嬉々として左斜め上を見た。しかし、気配は消えてしまった。姫は、悲しくなってしまいしばし固まった。それから気を取り直し、ぐっと集中してみたがいつものように閃かない。 ジュクックが、いつものように笑顔を浮かべながら、背中に冷たい汗を流している。

 橋の下に沈黙が広がった。

 しばらくして、姫は立ち上がって言った。

 「とにかく、娘たちを連れていくことは、ならん。代わりに……酒を持って行け」

 ビーアクは何も言わず、ただ目を細めた。


王の屋敷。

 それは粗末な板塀でぐるりと囲まれており、地面に突き刺した板を並べていったような作りだった。

 門のまわりだけは、土と木を混ぜて叩き固めた「たたき壁」で作られており、それなりの凄みと威厳が醸し出されていた。

 その内側には、立派な茅葺の屋根を持つ大きな王の屋敷があり、更にその内側・・

土間と板の間が織り交ぜられた不思議な空間があった。

 全体は板の間で、敷物が広げられていたが、囲炉裏のまわりだけは黒く固められた土。20ほどが座れるそこに囲炉裏が四つあった。今はまだ、火は弱く、そのまわりに カロー、ジュクック、そのほか数人の重たった者たちが、王と姫とともにゆったりと座り、昼の膳を囲んでいた。

 焼いた鰯の匂いが立ちこめる中、カローが口を開いた。

 「夜な夜な鐘の音が聞こえるっちゅう者が……ちらほらおる思うとったらの。そんな者らが最近、妙に増えとるらしいで」

 干物を口に運びながら、カローは不機嫌そうに呟いた。

 その言葉に、ほかの者たちは次々と反応した。

 「わしには聞こえませぬな」

 「鐘を怖がるあまり、幻を聞くようになったんじゃて」

 「そうや、要は気のせいじゃわ」

 囲炉裏を囲んだ声が交錯する中、ジュクックが箸を止め、少し目を伏せてぽつりと言った。

 「……実はの。夕べ……聞こえたような気が、したんじゃ……」

 「なにっ!? お主もかっ?」

 カローが目をむいた。

 「姫は? どうですじゃ? まさか……」

 その時、屋敷の門のほうで声が上がった。

 ざわめきが、土の壁越しにまで響いてくる。

 王が怪訝そうに眉をしかめた。

 「なんじゃ? 外がやかましいが……」

 ざわつきは次第に大きくなり、門の外で護衛と誰かが言い争っているようだった。

 屋敷の中にも、その声ははっきりと届いた。

 「・・・めんどくさいことが起こったんかいのう……」

 姫は囲炉裏を見つめたまま、小さくつぶやいた。

 「なにごとか?」

 カローが身を乗り出して、ジュクックに尋ねた。

 門の外では、護衛が懸命に応じていた。

 「姫がそのように織物の広さをお出しになったのなら、それで間違いはありますまい! では、誰か他に正しゅう計れる者はおるんか?」

 その声に重なるように、男の叫びが響いた。

 「考えてみりゃあ、織物の代わりにこっちが何か貰ってもええくらいじゃに! なんで酒をくれてやる? やんでやっ?」

 その言葉に、姫が立ち上がった。

 護衛がすぐに伴い、板の間から土間を横切って門のほうへと向かう。

 現れた姫に、外の者たちは一斉に頭を下げた。

 「かと言うて、馬を返すわけにもいかんわ」

 姫は静かに言った。

 「けんど、ビーアクは酒を、一抱えもある壺、持って行きましたぞ」

 声を上げたのはアクエだった。

 さらに、別の男──コブウも口を挟んだ。

 「仔馬、一たりを絹と酒と取り換えるってのは……あんまりじゃ思うてましょ?」

 姫は黙った。

 彼女の中で、今朝の情景がよみがえっていた。

 ビーアクが織り子を連れ去ろうとし、オリコが震えていた。

 自分は、あまりに焦っていた。

 あまりにも不公平な取り引きをしてしまった――。

 姫は振り返り、ジュクックに言った。

 「仲間を連れて、ビーアクに追いついて……酒を半分、取り返してまいれ」

 ジュクックが頷きかけたが、姫はすぐに続けた。

 「……いや、待て。お主は鐘がどうのこうのと申しておったな。ならば……今回は、カロー。お主が行け」

 「ははーっ!」

 カローは膝を折り、深々と頭を下げた。


夜。

 冷たい風に、雲が押し流されてゆく。

 その切れ間から、赤い三日月が、ひっそりと顔を出した。

 月は、笑っているようでもあり、泣いているようでもあった。

 そのときだった。

 ──コォーーン……

 冷たい音が、夜気を引き裂いた。

 妙に長く、妙に低く、その響きは、まるでこの世のものではないようだった。

 音の出どころは、都のはずれ。

 シャーマの家。その奥にひそむ、洞窟の入口から漏れているようだった。

 ──コォーン……

 ──コォーン……

 その音に応えるように、赤い月がわずかに雲間にまたたいた。

 大鐘は、洞窟の前の地に据え置かれていた。

 吊られていない。打たれてもいない。

 それでも、鳴っていた。

 巻かれていたはずのしめ縄は、すでにどこにもなかった。

 洞の口を塞いでいた太い縄も、外されていた。

 縄をくくっていた柱には、二匹の狼が縛りつけられていた。

 狼はすでに動かず、その目には光がなかった。

 生贄---

 その身から立ちのぼる、血とも湿気ともつかぬ匂いが、鐘の腹を撫でていた。

 鐘の前に、ひとりの男が膝をついていた。

 男は、白い絹の服を身にまとい、肘と膝を緋色の紐で固く縛り、胸には勾玉をかけていた。

 髪は耳の横でしっかりと結わえていたが、膝と肘は泥に染まり、地に触れたまま動かない。

 アクエだった。

 彼は静かに額を地に落とし、闇に向かって、声を絞り出した。

 「……お願い申し上げます……

  あの姫の御力を、お取り上げくださいますよう……

  そして、このわたくしを、王としてお選びいただけますよう……」

 鐘は、わずかに鳴った。

 ──コォーン……

 アクエの声は、つづいた。

 「その暁には、姫を遠き島へと……

  わたくしは、この国を、上の者と下の者がより分かたれた国といたします。

  苦しむ者を増やし、泣き叫ぶ声を、日々、捧げ物として差し上げましょう。

  あなた様が、望まれるであろう……そのような光景を……いくつでも、いくつでも……」

 そのときだった。

 ──ゴォォーーーン……

 鐘が鳴った。

 それは、それまでのどの音よりも深く、重く、不気味なほど長かった。

 地の奥でなにかが揺れたような錯覚さえあった。

 アクエは、ぐっと両手を高く掲げた。

 そして、それを振り下ろすようにして、手と膝を泥の地へと強く押しつけた。

 鐘が、再び鳴った。

 ──ゴォォーーーン……

 夜の空気がすべて、その音に吸い込まれていった。

 赤い三日月は、いつの間にか、また雲の向こうへと隠れていた。


朝。

 都の北のはずれから、さらに山側へ少し入ったところ。

 紅葉にはまだ早いが、木々はすでに秋を思わせる風を受け、ゆるやかに葉をゆらしていた。

 鳥がさえずり、空気は澄んでおり、そこにある湯の香りがふわりと漂っていた。

 その場所には、湯が湧いていた。その場所に ただ板を組んだだけの、簡素な更衣室がひとつ建てられていた。 部屋は真ん中で仕切られており、どうやら男女の区分らしかった。

 姫は、朝からの温泉が好きだった。

 髪をほどき、衣を脱ぐと、まだ成熟には遠い身体を気にすることもなく、湯の中へと身を沈めた。

 肌にふれる湯の温かさに、ほっとしたように目を細める。

 やがて、湯気の向こうから、もうひとつの影が現れた。

 オリコであった。

 姫より年上で、すでに体つきもしっかりとしていた。

 「……わらわも、そなたのようになれるかのう」

 「は?」

 「体のことじゃ」

 「気にしておるのですか?」

 「母さまが豊かなお体であったそうじゃけん、そがぁなに気にはせぬが……」

 「そうですとも。きっともうすぐ……」

 「わらわはのう、姫でなくても……男に好かれるようになりたいのじゃ」

 姫は石を枕に寝そべるようにつかり、オリコ湯の中の石に座って浅くつかった。二人はぽつりぽつりと言葉を交わしていた。

 湯のまわりには、姫の護衛が、木の陰などに六人ほど、ひっそりと控えていた。

 そのとき、別の護衛がふたり、足音を忍ばせて近づいてきた。

 「どこか遠うくの国に行って、賢うて、優しゅうて、強き殿方の……嫁になりたいのじゃ」

 突然、若い男の声が聞こえた。

 「つまり、姫は、めんどうじゃと・・だな」

 後ろに立っていたのは、ショワだった。

 姫は湯の中から、片目だけでちらりと彼を見やった。

 オリコは肩まで湯に沈んでしまった。

 「めんどうもええとこじゃて。昨日も、オリコが連れて行かれそうになるし、このところ異に、ややこしゅうてならんのじゃ」

 「すみません……わたしも、なぜ“ついて行く”などと申してしまったのか……」

 「誰しも、ぼうっとしておる時はあるもんじゃ。・・・  わらわも一日ぼんやりしとったり、織物やら、建ものやら、金打ちを眺めたりしとる方が、よいなぁ」

 ショワが湯のふちに腰をかけながら言った。

 「……ってことは、姫は、姫をやめたいと?」

 「まったくじゃ」

 「やめたいと?」

 「やめたいのう」

 姫は、湯けむりの向こうで、のんびりと、吐き出すように言った。

 「おーーいっ! 姫が姫をやめたいと、申しておられるぞっ!」

 ショワが立ち上がり、湯船の外へ叫んだ。

 それを聞いていたショワの護衛二人が、びくりとした。

 「姫が姫をやめたいと?!」

 「姫さまっ?!」

 オリコまでが声を上げる。

 「戯れじゃ、戯れじゃ」

 姫が笑いながらそう言うと──

 今度は姫の護衛たちまでが、慌てた声をあげた。

 「姫が……姫をやめたいとっ?!」

 「なんと?!」

 「それは……一大事ではっ?!」

 「え?!」とオリコが言う間もなく、

 「姫が姫をやめたいとっ!」

 ショワは叫びながら、湯船から勢いよく飛び出した。

 そして、全員が叫びながら、都の方角へ駆け出していった。

 草むらを蹴り、足音をばたばたと響かせながら。

 その様子を、少し遅れて見に来たジュクックが見つめていた。

 「姫が……姫をやめたいと……?」

 呆然とつぶやいたジュクックの横で、護衛の一人が、真顔で叫んだ。

 「ジュクック殿、しっかりなされいっ!」

 姫は、湯から上がると慌てて衣をまとうた。

 髪がまだ濡れたままだったが、そんなことを気にしている暇はなかった。

 護衛もろとも、湯をあとにして王の邸宅へと急ぎ戻った。

 けれど、その邸宅は──

 邸宅の周りには、すでに人だかりができていた。

 ごつい体の者たちが、竹槍や棒のようなものを手に持ち、家を取り囲んでいた。

 板塀の外にも、中にも、緊張が立ちこめていた。

 邸宅の中の影から、弓を引き絞る腕が見えた。

 矢がつがえられ、誰かが外へと狙いを定めているのがわかった。

 姫の目には、何か黒いものが辺りに立ちこめているように見えた。

 煙ではない。

 けれど空気がどこか黒ずんでおり、見えぬ瘴気のようなものが、地を這っているように思えた。

 姫は思わず身を縮め、広場の隅──神器具小屋の陰へと身を隠した。

 息を殺し、声をひそめて、つぶやいた。

 「……一体、なにが起きたのじゃ……! どうしたのじゃ、みんなっ……!」

 そのとき、誰かの声ではない、何かが──耳の奥で、そっとささやいたように感じた。姫は思わず右上をみた。

 見えぬ精霊の、ひとすじの声。

 遠く、かすかに・・・

 姫の目が見開かれた。

 「……そうじゃ! あの、大鐘じゃ……! あの大鐘は、今どこにあるっ……?!」

 そのときだった。

 誰かが、神器具小屋の陰をのぞき込んできた。

 「──姫だ! 捕らえろっ!」

 声が上がると同時に、数人の男たちが動いた。

 その中に、ショワの姿があった。

 けれど彼の顔は、姫が知っていたあの笑顔ではなかった。

 目は鋭く釣り上がり、鼻は尖り、口元は細く吊り上がっていた。

 人ではない何かが、そこに宿っているように見えた。

 狐だった。

 ショワは、まるで狐に取り憑かれたように、顔が変わっていた。

 目が合ったその瞬間、姫の背筋を冷たいものが這い上がった。

 「……ちがう……あれは、ショワではない……!」


 暗闇の奥から──

 「……オオーン……」

 声とも、音とも、風ともつかぬものが、地の底から響いていた。

 それは、低く、長く、空気をゆっくりと揺らしながら、大鐘の胴を震わせるようだった。

 まるで、どこか遠くで、大鐘と共鳴しているかのように。

 洞窟の入口、大鐘の前には、ひとつの生首が供えられていた。

 鹿の首だった。

 血はすでに乾き、目は閉じられていたが、その角は天を睨むように鋭くそそり立っていた。

 その周囲には、何本ものイナウが突き立てられていた。

 さらに、その足元にはいくつもの土偶が置かれ、色とりどりの布や紐で、物々しく飾り立てられていた。

 その場には、アクエ、シャーマ、コブウの三人に加え、数人の男たちがいた。

 皆、鐘の方へと身体を向け、地に額を擦りつけるようにして伏していた。

 誰ひとり、顔を上げてはいなかった。

 口々に、何語ともつかぬ音を発しながら、息を吐くように、喉の奥で呟き続けていた。

 その言葉は呪文のようでもあり、祈りのようでもあった。

 あるいは、それは、呼び声だったのかもしれない。

 そのとき──

 洞の奥から、黒いものがにじみ出てきた。

 煙ではなかった。

 霧とも違う。

 それは、光を拒むように、静かに、闇の中から現れた。

 黒い霧のようなそれは、やがて大鐘のまわりへと流れ、渦を巻き始めた。そして、祈りの場を照らしていた火── 土器に注いだ油を燃やしていた、小さな光が、次々に、見えなくなった。 


 姫は駆け出した。

 その背中を追って、黒い空気の中を、何人もの足音が響いてきた。

森の中を、姫は駆けていた。

 手には、悪霊の力を封じ込めるための、白く清められたしめ縄を持っていた。

 後ろには、まだ正気を保っている者たちが続いていた。

 「走れっ! 急げっ!」

 その先にあるのは、シャーマの家。

 悪霊が目覚め、儀式が完成しようとしている場所。

 けれど──向こうから現れた“それ”を見た瞬間、姫の足が止まった。

 空気が凍った。

 魂が引き裂かれるような感覚が、身体を貫いた。

 そこに現れたのは、アクエたちを呑み込んだ“モノノケ”だった。

 熊の脚、鹿の角、狼の牙、狸の尻──

 あらゆる獣の部位が混ざり合い、しかもその顔は……

 アクエだった。

 だが歪んでいた。

 目は落ちくぼみ、舌はだらしなく垂れ、口元からはよだれが糸を引き、

 目玉は血走り、顔全体が飢えと欲望で崩れきっていた。

 その顔が笑っていた。

 笑って、呻いて、呻いて、笑っていた。

 姫はその場に凍りついた。

 振り返ると──

 今度は、ショワを先頭に、村人たちが武器を手に迫ってきていた。

 だが彼らの顔はすでに人のものではなかった。

 目が吊り上がり、耳が伸び、牙が覗き、頬に毛が浮いていた。

 人が動物に、逆に変わっていた。

 「姫だ! あそこにいるぞ!」

 姫はモノノケに飲み込まれたアクエたち、そしてモノノケと化した村人たちに挟まれていた。

 逃げた。

 叫びながら、森の間を縫って、必死に逃げた。

 「わーっ……!」

 転んだ。

 足が絡まり、地に顔を打った。

 黒い気体のような霧が、姫に向かって近づいてくる。

 そのとき──

 姫は、右上を見た。

 何かが頭に閃いた。姫は口に手を当て、叫んだ。

 「助けてたもれーっ!」

 黒い霧が姫に絡みついた。

 喉を締め、足を引きずり込もうとしてくる。姫は右上を見た。そして叫ぶ方向を変えた。──東南東──

 「助けてたもれーっ!」

 ──その瞬間だった。

________________________________________

 ぱっ──と、目の前が開けた。

 広場があった。

 きれいに整った草。

 そこでは、姫と同じ年頃の少年たちが、藍色の奇妙な服を着て、丸い毬を蹴って遊んでいた。

 「……???……」

 姫がまず驚いたのは、同じ年ごろの子どもが、こんなに大勢いるということだった。

 それにあの毬──あまりにもよくできていた。

 まるで風の中で生きているように動いていた。

 さらに目を引いたのは、目の前に浮かぶ、透明な板。

 (……なんじゃ、これは?)

 板の向こうには、人がいた。

 まるで中に閉じ込められているように見える。

 その時、右から声がした。

 「ユイ。この問題を解いてみなさい」

名を呼ばれて驚いたとき、板の向こうの人物がビクッと動いた。それで姫はそれが一種の鏡だと気づいた。

「ユイ!・・」

 振り向くと、そこは四角い、奇妙な部屋だった。

 床も、壁も、机も、なにもかもが見たことのない形をしていた。

 隣には、やはり姫と同じ年頃の少女が座っていて──

 「ユイ……どうかしたの?」

 と、問いかけてきた。

 姫はぽかんと口を開けたまま、言葉が出なかった。

 がれの前に立っている男が、自分を見ていた。

 この男もまた、見知らぬ衣をまとい、知らぬ言葉を話していた。

 ──そのとき。

 右斜め上の空間から、かすかな声が聞こえた。

 「姫、異世界に来たよ」

 反射的に見上げると、そこには──

 小さな羽根の生えた、愛らしい妖精が、ふたり、宙に浮かんでいた。



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ダブル異世界 姫さま危機一髪×TWO ろーけん @kidoloh

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