地下水道の鼠

灼けるような痛み。


それが、俺の意識を繋ぎ止める唯一の錨だった。


肩を焼かれたレーザーの熱が、神経を逆流して脳を焦がす。


視界が、赤と黒のノイズで明滅していた。


「しっかりしな、探偵!」


エヴァの声が、水中で聞くようにくぐもって聞こえる。


彼女が俺の腕を引きずり、狭いダクトの中を必死で進んでいるのが、断片的に理解できた。


背後からは、追手の怒号と、金属がぶつかり合う音が響いてくる。


もうダメだ。捕まる。


俺は、彼女の足手まといになっているだけだ。


「エヴァ……俺を、置いていけ……」


「馬鹿言うんじゃないよ!」


彼女の怒声が、ダクト内に反響した。


「あんたに死なれちゃ、寝覚めが悪すぎる!」


ダクトの先が、開けた空間に繋がっていた。


俺たちは、汚泥と水の溜まった、古い地下水道に転がり落ちる。


鼻をつくのは、ヘドロの腐臭。


俺たちは、まるでドブネズミだった。


光の届かない街の底を、ただ生き延びるためだけに、這いずり回る。


エヴァは、負傷した俺を背負うようにして、迷路のような地下水道を進んだ。


彼女の体は、見た目よりもずっと強靭だった。


あるいは、彼女を突き動かしている憎悪が、そうさせているのかもしれない。


どれくらい時間が経ったのか。


俺の意識は、何度も途切れそうになった。


そのたびに、エヴァが俺の頬を叩き、必死に呼びかける。


やがて、俺たちは、錆びついた梯子を上り、一つの部屋にたどり着いた。


そこは、かつて地下ドックとして使われていた場所らしかった。


今は使われていないホバークラフトが、巨大な骸のように鎮座している。


「……ここまで来れば、ひとまず安全なはずよ」


エヴァは、俺を壁に寄りかからせると、ぜえぜえと肩で息をした。


彼女の額にも、汗と汚れが浮かんでいる。


「……悪い、助かった」


「礼を言うのは、生き延びてからにしな」


彼女はそう吐き捨てると、どこからか医療キットを取り出してきた。


その手際の良さに、俺は驚く。


「お前……手当てなんて、できるのか」


「情報屋は、体が資本なんでね。これくらい、できないとやってけないのよ」


エヴァは、俺のコートを乱暴に脱がせると、レーザーで焼かれた肩口を見て、顔をしかめた。


戦闘服が溶け、皮膚と癒着している。


「……ひどい傷。下手に動かすと、神経がやられるわね」


彼女は、医療キットから冷却スプレーと、メスのような器具を取り出した。


「おい、まさか……」


「黙って歯を食いしばりな。痛くない保証はない」


彼女は、俺の肩に冷却スプレーを吹き付け、感覚を麻痺させる。


そして、メスの先端で、慎重に、癒着した服の繊維を剥がし始めた。


じりじりと、肉が抉られるような痛み。


俺は、奥歯を強く噛みしめ、呻き声が漏れるのを必死でこらえた。


「……あんた、なんであんな無茶したのよ」


作業をしながら、エヴァが低い声で言った。


「……お前が、狙われてたからだろ」


「お人好しね。あんたみたいなのが、一番先に死ぬタイプよ」


「ほっとけ」


憎まれ口を叩き合いながらも、俺たちの間には、奇妙な空気が流れていた。


ここは、光の当たらない街の底。


信じられるのは、目の前にいる、この食えない女だけ。


「……それにしても、あんたのハッキング、すごかったな」


俺は、痛みを紛わわすために、口を開いた。


「まるで、メモリア社のシステムを知り尽くしてるみたいだった」


彼女の手が、一瞬だけ止まった。


「……さあね。敵を知り、己を知れば、百戦危うからず、って言うでしょ」


彼女は、何でもないように答える。


だが、その声には、微かな棘があった。


やがて、癒着した繊維がすべて取り除かれ、エヴァは傷口に再生軟膏を塗り込み、滅菌パッドを当てていく。


その時、彼女の指が、俺の肩にある、別の傷跡に触れた。


7年前の、爆破テロで負った、古い火傷の痕だ。


彼女は、その傷跡を、何かを確かめるように、じっと見つめた。


その瞳に、今まで見たことのない、複雑な感情が揺らぐ。


悲しみ、怒り、そして、ほんの少しの、罪悪感のようなものが。


「……あんたも、色々あったみたいね」


彼女は、それだけを呟くと、すぐにいつものポーカーフェイスに戻り、手早く包帯を巻き終えた。


「よし、終わり。しばらくは、絶対安静よ。ヘタに動いたら、腕がお釈迦になるからね」


「……恩に着る」


「貸し一つ、ってとこね」


エヴァは立ち上がり、汚れた手を拭った。


「奴らは、人の心さえ、平気で商品にする。記憶を上書きして、別人に作り替える。そんな連中、絶対に許しておけない」


彼女の横顔は、復讐の女神のように、冷たく、そして美しかった。


俺は、焼かれた肩の痛みと、彼女が放つ危うい魅力に、クラクラしながら、意識を手放した。

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