生存者たちのリスト

地下ドックの冷たいコンクリートの上で、一週間が過ぎた。


俺の肩の傷は、エヴァの献身的な(そして、口の悪い)看病のおかげで、驚くべき速さで回復していった。


再生軟膏が新しい皮膚を作り、痛みは鈍い疼きへと変わる。


動けない俺の代わりに、エヴァは食料を調達し、隠れ家のセキュリティを強化し、そして、来るべき反撃のために、静かに牙を研いでいた。


俺たちは、必要最低限の会話しか交わさなかった。


だが、薄暗い闇の中で、一つのランタンの光を分け合ううちに、俺たちの間には、言葉を超えた奇妙な共犯関係が築かれていった。


彼女は、俺の過去を深くは聞かなかった。


俺も、彼女の腕の火傷の理由を、問いただしはしなかった。


俺たちは二人とも、過去に囚われた亡霊だった。


そして、今、同じ敵を前にしていた。


それだけで、十分だった。


「……そろそろ、動けるようになったんじゃないの、探偵さん」


八日目の朝、エヴァが俺の包帯を交換しながら言った。


「ああ。おかげさまでな」


俺は肩を回してみせる。まだ少し突っ張るが、実戦に支障はないだろう。


「じゃあ、いつまでもこんなドブの底にいるのは、もう終わりね」


彼女は立ち上がると、コンソールに向かった。


その瞳には、反撃の光が宿っている。


「約束通り、メモリア社のサーバーに、もう一度お邪魔させてもらうわ。今度は、もっと深くまでね」


「危険すぎる。クロウの奴らが、お前のアクセスを探知したら……」


「だから、あんたの出番でしょ」


エヴァは、不敵に笑った。


「私がハッキングしてる間、あんたは私の"目"になって、周囲を警戒する。追手が来たら、何としてでも時間を稼ぐ。できる?」


「……やってやるさ」


俺は銃を手に取り、隠れ家の入り口に陣取った。


エヴァは、ダイブチェアに深く腰掛けると、指先に装着したインターフェースを起動させる。


彼女の意識が、仮想空間へとダイブしていく。


現実世界に残された彼女の体は、完全に無防備だった。


俺が、彼女を守る唯一の盾だ。


コンソールのメインスクリーンに、エヴァが見ている映像が映し出される。


そこは、データの奔流が飛び交う、広大なサイバースペース。


エヴァのアバターは、黒い鳥のような姿で、メモリア社の巨大なファイアウォールをすり抜けていく。


無数の防衛プログラムが、彼女を異物として認識し、攻撃を仕掛けてくるが、彼女はまるで踊るように、そのすべてをかわし、無力化していく。


彼女のハッキングは、もはや芸術の域だった。


「……見つけた」


エヴァが、現実世界で、小さく呟いた。


画面に、厳重にロックされたデータフォルダが表示される。


『特殊記憶療法プログラム:臨床被験者リスト』


「こいつよ。ヤマシロ・ミナたちが参加させられていた、カウンセリングの……」


彼女は、パスワードの入力を求められることなく、システムの深層心理とでも言うべき、根幹のコードを直接書き換えていく。


常人には、魔法にしか見えない光景だ。


フォルダのロックが、音を立てて解除される。


中から現れたのは、膨大な数の個人データだった。


「やった……!」


俺が拳を握りしめた、その時。


エヴァのアバターが、すぐ隣にある、別のフォルダに一瞬だけ視線を向けた。


そのフォルダには、こう記されていた。


『Project_Reminiscence』


「……なんだ、これ……?」


彼女がアクセスしようとした、その瞬間。


けたたましい警告音が、コンソールから鳴り響いた。


クロウの部隊が、彼女の侵入を察知したのだ。


「くそっ、時間がない!」


エヴァは舌打ちすると、『Project_Reminiscence』を諦め、被験者リストのダウンロードを最優先する。


ダウンロードの進捗バーが、じりじりと上がっていく。


それは、永遠のように長い時間に感じられた。


「ライア、来るわよ!」


ほぼ同時に、隠れ家の外から、複数の足音が聞こえてきた。


俺は、銃を構え、入り口のドアに照準を合わせる。


心臓が、激しく鼓動していた。


ダウンロード完了。


エヴァは、ダイブから強制離脱すると、すぐさまデータを解析し始めた。


「被害者のデータと、このリストを照合する……!」


彼女の指が、キーボードの上を嵐のように駆け巡る。


次々と、被害者たちの名前が、リストの中からヒットしていく。


そして、俺たちは、その衝撃的な事実にたどり着いた。


「……全員だ」


俺は、愕然として呟いた。


「ヤマシロ・ミナも、他の被害者たちも、全員……」


「ええ」


エヴァが、信じられないといった表情で、画面を見つめている。


「全員、『7年前のセントラルタワー爆破テロ』の……生存者よ」


7年前の、あの地獄。


ユキが死に、俺がすべてを失った、あの日。


なぜだ?


なぜ、あのテロの生存者たちが、今になって殺されなければならない?


俺たちが、答えを見つけたと、そう思った、その時だった。


ズガアァァン!


隠れ家の壁が、内側から爆発した。


クロウの部隊は、入り口からではなく、俺たちの真下の古いトンネルを爆破して、侵入してきたのだ。


完全に、意表を突かれた。


閃光と煙の中、黒い戦闘服の男たちが、雪崩れ込んでくる。


俺は、応戦しようと銃を構えるが、敵の数が多すぎる。


「ライア、こっち!」


エヴァが、俺の手を引く。


だが、俺たちは、完全に包囲されていた。


絶望的な状況。


その時、エヴァは、何かを決意したように、俺の顔をまっすぐに見た。


「あんたは、行きなさい」


「何を言ってる!」


「この情報は、絶対に奴らに渡しちゃいけない。あんたが、これを公表するのよ」


彼女は、リストの入ったデータチップを、俺の手に無理やり握らせた。


「ふざけるな! お前を置いていけるか!」


「これは、命令よ、探偵さん」


彼女は、初めて見せる、悲しい笑顔を浮かべた。


「私に、貸しがあるでしょ?」


そう言うと、彼女は俺の背中を強く突き飛ばした。


俺の体が、ホバークラフトの残骸の影に転がり込む。


そして、エヴァは、一人、クロウの部隊の前に立ちはだかった。


「さあ、お遊びは終わりよ、メモリア社の番犬ども!」


彼女は、両腕を広げた。


その姿は、まるで、自ら十字架にかかろうとする、聖女のようだった。


俺は、声にならない叫びを上げながら、ただ、その光景を見ていることしかできなかった。


黒い影が、エヴァに群がる。


彼女の体は、すぐに取り押さえられ、闇の中へと引きずられていった。


最後に聞こえたのは、彼女の、俺に向けた、か細い声だった。


「……生きて」


俺は、握りしめたチップの硬さと、自分の無力さを噛み締めながら、闇の中を、一人、逃げ出した。

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