迫る影

クロウ。


メモリア社の保安部長。


その名を知ってから、俺の世界から平穏は完全に消え去った。


スラム街の安宿を、二日おきに転々とする日々。


眠りは浅く、ほんの些細な物音にも心臓が跳ね上がる。


街角の監視カメラが、すべて俺を睨んでいるように思えた。


すれ違う誰もが、クロウの放った追手ではないかと疑ってしまう。


被害妄想が、毒のように精神を蝕んでいく。


これが、プロに追われるということか。


五日目の夜。


エヴァから、新しい隠れ家を指定する連絡が入った。


廃棄された地下鉄の、旧車両基地。


そこは、街の公式マップからも消去された、忘れ去られた場所だった。


錆びた鉄の扉を開けると、カビとオイルの匂いが鼻をついた。


薄暗い闇の奥、ランタンの灯りが一つ、ぼんやりと揺れている。


その下に、エヴァがいた。


「遅かったわね、探偵さん。死体になってないか心配したわよ」


彼女は軽口を叩くが、その目には疲労の色が浮かんでいる。


「あんたこそ。よく無事だったな」


「まあね。私を捕まえるのは、クロウでも骨が折れるはずよ」


彼女はそう言って、コンソールの画面を俺に向けた。


そこには、被害者たちのリストと、メモリア社の内部資料らしきものが表示されている。


「あんたの言った通り、被害者たちは全員、メモリア社のカウンセリングを受けてた。それも、公にはされていない、特別なプログラムをね」


「特別なプログラム?」


「ええ。表向きは『PTSD治療のための先進的記憶療法』。でも、その実態は……」


エヴァは言葉を切り、忌々しげに呟いた。


「記憶の『上書き』よ」


「上書き、だと……?」


「そう。患者のトラウマ記憶を消去するだけじゃない。その空白部分に、別の、当たり障りのない偽の記憶を移植する。それが、このプログラムの本当の目的」


頭を殴られたような衝撃だった。


記憶を、別の記憶で塗り替える。


そんな、神をも恐れぬ所業が、本当に行われているというのか。


「なぜ、そんなことを……」


「そこまでは、まだ分からない。でも、ヤマシロ・ミナたちの記憶に現れた"ゴースト"は、おそらく、この『上書き』が不完全に終わったせいで生まれたバグのようなものよ。移植されるはずだった偽の記憶と、消されるはずだった本物の記憶が、混じり合ってしまった……」


だとしたら、"ゴースト"のノイズの中にあった、あの断片的な音声や映像は……。


俺が思考を巡らせた、その瞬間だった。


ガァンッ!


隠れ家の分厚い鉄の扉が、外から凄まじい勢いで破壊された。


閃光弾が投げ込まれ、強烈な光と音が、俺たちの視覚と聴覚を麻痺させる。


「くそっ、もう来やがった!」


エヴァが叫ぶ。


煙の中から現れたのは、黒一色の戦闘服に身を包んだ、複数の人影だった。


その動きには、一切の無駄がない。


スラムのチンピラとは次元が違う、高度に訓練されたプロの動きだ。


クロウの部隊だ。


彼らは、一切の警告を発することなく、俺たちに向けてレーザーサイトの赤い光を照射する。


「こっちよ!」


エヴァが俺の腕を掴み、車両基地の奥へと走り出した。


背後で、レーザーが空気を切り裂く。


立て続けに。


俺たちは、迷路のような車両の間を、必死で駆け抜ける。


エヴァは、まるでこの場所の地図が頭に入っているかのように、淀みなく俺を導いた。


「ここの通気ダクト、古い都市管理システムに繋がってる! そこから逃げるわよ!」


彼女は壁のパネルをこじ開けると、携帯端末を接続し、猛烈な勢いでコードを打ち込み始めた。


画面には、俺が見たこともないような、複雑なセキュリティ・プロトコルが表示されている。


「おい、そいつは……メモリア社独自の……」


「うるさい! 黙ってて!」


彼女のハッキングは、常軌を逸していた。


まるで、そのシステムの作り手自身であるかのように、的確に、最短のルートで防御壁を突破していく。


ガコン、と音を立てて、ダクトの入り口が開いた。


「早く!」


俺たちがダクトに滑り込もうとした、その時。


背後の暗闇から、影が一つ、音もなく現れた。


そいつは、他の隊員とは明らかに違う、異様なほどの静けさをまとっていた。


その影が、手に持った銃を、まっすぐにエヴァに向ける。


「エヴァ、伏せろ!」


俺は、彼女の体を突き飛ばした。


次の瞬間、俺の肩に、焼きごてを押し付けられたような、灼熱の痛みが走った。


レーザーに、焼かれた。


激痛に、意識が遠のいていく。


薄れゆく視界の中で、俺は見た。


ゆっくりとこちらに歩いてくる、黒い影。


その手には、硝煙を上げる銃。


そして、その背後で、絶望的な表情で俺の名を叫ぶ、エヴァの顔を。

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