トウアンパズル【アオハルパズル第2弾】

天野 純一

第1話 緑川御影という女

 七月下旬。セミがけたたましく鳴いている。うだるような暑さだ。通勤ラッシュの時間帯だからか、大人たちはみんな疲弊した表情を浮かべている。


 キーンコーンカーンコーン。


 一限目の本鈴がなるのとほぼ同時に、俺——たかさきそう——はなんとか教室の自分の席に辿り着いた。教師はまだ来ていないようだ。


 サラッと髪を流してから、斜め掛けのポーチを肩から外す。それからリュックを下ろし、机の脇に置く。リュックの中はプリントや参考書でひしめき合っている。完全に満杯だ。重いったらありゃしない。


 席に着いて一息つく。ひとつ深呼吸してから、さっき使った電車の定期券をポケットから取り出し、ポーチに戻す。ポーチには定期以外に財布やスマホなどが入っている——はずだった。


「うわ~最悪や。財布入れ忘れてるやん」


 すると、


「へぇ~。颯クンってなんだぁ~」


 ひとつ後ろの席から間延びした声がした。この声は——振り向かなくても分かる。


 振り向くと、案の定声の主はみどりかわかげだった。俺は軽く眉根を寄せる。


「そうやけど。何や急に」


「今の行動見てたら分かるよぉ~。颯クンがここからちょっと離れた実家に住んでるってこと」


 俺が黙って先を促すと、御影は不敵な笑みを浮かべた。


「まず注目すべきは、颯クンがポーチを外してからリュックを下ろしたこと。ポーチは斜め掛けのものだから、上半身を一周してるよねぇ。リュックにももちろん肩ベルトがついてる。ポーチとリュックを下ろした順番の前後関係から、颯クンが教室に着いた時点で、リュックの肩ベルトはポーチのベルトよりも身体側にあったことになるんだよぉ」


「はあ」


「やってみたら分かるけど、斜め掛けポーチを先に掛けておいてリュックより先に下ろすのは難しいよぉ。したがって、颯クンは学校に到着する前、リュックを背負ってからポーチを掛けたことになるよねぇ」


「そうやな」


「ここで颯クンが電車の定期を持ってることから、電車通学であることは明らか。いや、もしかしたら定期は習い事で使うものかもしれない? でもそれもおかしい。だって、朝来た時点で定期はポケットに入ってたわけだから。定期はついさっき使われたってことが分かるんだよぉ」


「ごもっとも。俺は電車で通ってる」


「となると、すでに不自然だよぉ。今は通勤ラッシュの時間帯でしょ? 。抱っこみたいにしたり股の間に置いたりすることはあるにせよ、背負ったままでいることはありえないよねぇ。今度はポーチについて考えてみるとさぁ。他人と肩が触れ合うような満員電車でポーチを外す人いる? いないでしょ。運良く座席に座れたとしても、ポーチをわざわざ外すなんてこと普通はしない。ひったくられるかもしれないからね」


「たしかに」


「唯一考えられるのは、最初からポーチを掛けていない場合。あるいはポーチを外してリュックに入れられる場合。すなわち、電車内ではリュックの中にポーチを入れていた場合だねぇ。これならポーチが盗みに遭うことはないから安心できるかも。でもこれもありえないよねぇ。見た感じ満杯でしょ、そのリュック。ポーチが入りそうな隙間なんてないよぉ」


「そろそろ参考書類は整理したいんやけどな。めんどくさくて」


「となれば、颯クンが電車で来たと仮定した場合、リュックを下ろしてからポーチを外さないと不自然。つまり、颯クンは電車で来たわけではないことが分かる。次に考えるべきは、颯クンがこと。今日バチクソ暑いよぉ。?」


「それは——」


「もし徒歩や自転車で来たなら、汗びっしょりになってないとおかしい。もしかしたら家がすごく近いのかな。それも違うよねぇ。電車通学なんだから。一駅分以上は離れてるはずだよぉ」


「おっしゃる通りで」


「次に考えるべきは、そもそもなぜ颯クンが電車に乗らなかったのかってこと。理由はいろいろ考えられるけど、重要になるのは定期券をポケットに入れていた点。?」


 どうやら御影には全てが見通せているらしい。


「ポーチから定期を取り出して改札を通って、ポケットに入れる。そんなの不自然極まりない。使としか考えられないよぉ。リュックにポーチを入れる隙間はないから、ポーチをそもそも持ってなかったことになる。つまり、定期券だけを裸で持っていたことになるんだよねぇ」


「そんなん意味不明な状況やと思うけど。何言うてんねん」


 俺は挑戦的な視線を送ったが、御影は意に介さない。


「ここでまた注目すべきなのは、汗をかいていないこと。こんなに本鈴ギリギリなら、。でも実際は汗をかいてないから、悠々と歩いて来たことになる。これは遅れてもいいと内心思ってたからじゃないのぉ?」


「俺は遅れそうになったら急ぐで。普通に」


「だからこそだよぉ。電車に乗っていないのに定期を使ったこと、学校に遅れてもいいと思っていたこと。考えられる理由は一つだよぉ。。万が一遅刻しても言い訳できるようにねぇ」


「……よく分かったな」


「ふふーん。じゃあ颯クンの朝の行動について考えてみよう。まず家を出て、最寄り駅に着いたら電車が遅延していることに気がついた。——とすると矛盾するよねぇ。この場合、ポーチを持たずに定期券だけ掴んで学校に行こうとしていたことになる。そんなことありえない。すなわち、電車が遅延していることは家を出る段階で知っていたことになる」


「うん。電車運行情報を確認したら『遅延』ってなってたから、最初から電車で行くつもりはなかった」


「そうだよね。つまり颯クンは家で電車が遅れていることを知り、時間がギリギリだったから遅延証明書を取りに行った。次に交通手段について考えてみよう。まずタクシーはありえない。財布を忘れてるわけだから。今回だけ見逃してもらった、とかいうこともありうる? それもない。財布を忘れてることに気づいたのはたった今だもの」


「まぁ俺なんか貧乏学生やし、タクシーには乗らんな」


「じゃあ今度はバスに乗ってきた場合について考えてみよう。颯クンが定期券を裸で持って駅員さんに見せに行ったことから、その時点でポーチはどこに置いてきたんだろう。例えばバスが長時間停車するタイミングでポーチを車内に置いていった? ありえない。貴重品を入れたポーチをバスに放置するわけない。考えられるのは家だけだねぇ。定期だけ持って身軽な状態で最寄り駅に行き、遅延証明書をもらってまた家に戻った。それから荷物を全部持ってバス停に向かったんだぁ」


「まぁそうなるんかな」


「この場合、最寄り駅は家からかなり近いってことにはなるだろうねぇ。最寄り駅が遠いなら、遅延証明書を取りに行く間に大幅に時間をロスしちゃう。それだけの時間を失ってもなおギリギリ学校に間に合ってることになる。それなら最初から遅延証明書なんか取りに行かずに学校に直行したら絶対間に合う。あとは一応汗かいてないことからも明らかだね」


「つまり俺は家から程近い最寄り駅まで行って遅延証明書をもらってから学校に来たと?」


「そうなるよね。でもそれもおかしい。っていう話になるからぁ。たしかに財布がなくても、最近は定期券がICカード代わりになる場合も多い。でもそれなら、使。ポケットに定期を入れたことに矛盾して逆戻り。よってバスの線もない」


「電車でも徒歩でも自転車でもバスでもタクシーでもないと」


「答えは一つだよね。しかない。車の中なら安心してポーチを置いていける。車で最寄り駅まで行き、邪魔なポーチを車内に置いて遅延証明書をもらいに行ったんだ。車は渋滞に巻き込まれる可能性があるから、学校の到着時刻が読みにくい。だから念のため遅延証明書をもらうのは自然。遅延証明書をもらった颯クンは定期をポケットに突っ込んだ。そこから車に戻り、学校まで送ってもらって悠々と教室に現れたってわけ。これらのことから、颯クンは実家暮らしであることが分かる」


「……正解や。洞察力どうなってんねん」


 御影は鼻を鳴らす。


「えっへん。御影サマの手に掛かれば『未知』のことなんてすぐ解けちゃうのよぉ」


 なんとなく癪だったので、俺は水を差すことにする。


「でももしかしたら俺が電車内でポーチを外す奴で、定期をなぜかポケットに入れる奴で、遅刻しそうになっても気に留めへん奴かもしれんで。ありえんことはないんちゃう? そうなると俺が実家暮らしと完全に決め打ちするのは尚早ちゃうか?」


 すると御影はペロッと舌を出した。


「この前颯クン、オムライス食べてたよねぇ。ケチャップで『ソウマ♡』って書いてたよぉ。愛あるじゃんねぇ」


「クッソ、コイツ! 頑張って隠しながら食ってたのによォ!」


 俺が悲痛の叫びを上げたタイミングで、教室の扉が開いた。現れたのは数学教師のやまぐちだ。鬼の面かと見まがうほどのこわもてだ。彼が登壇すると、一瞬にして教室は静まり返る。


「ただいまから期末試験のテスト返却を行う。と、その前に」


 山口が言葉を切った。するとまもなく、扉から見知らぬ生徒が入ってきた。中性的な顔立ちをしている。彼は教壇に直立した。


 山口が黒板に〝一ノ瀬朔也〟と書いた。


「今日から転校生が新たに参加する。一学期の終わりと中途半端なタイミングだが、仲良くしてやってくれ。——自己紹介を頼む」


いちさくと申します。隣のべにごろも市から来ました。どうぞよろしくお願いします」


 山口が彼に微笑みかける。


「よろしく。すまんが今日のところは、欠席してるよしもとの席に座っといてくれ」


 山口が吉本の机を指差す。一ノ瀬は指示通り着席した。


 それを見届けて、山口は改めて答案用紙の束を揺らす。彼は出席番号順に答案返却を始めた。


あお!——あら!」


 中盤あたりに「髙﨑!」と呼ばれる。答案を受け取ると、点数欄には40と書かれていた。ちなみに赤点の基準ラインは40点である。


 俺は点数だけ確認してそのままリュックの中に突っこんだ。

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