第2話:三人のディナーは毒の味
小説『バレて困る浮気なら、最初からしない』
第二話:三人のディナーは毒の味
「さあさあ、二人とも座って!腹が減っては戦はできぬ、だろ?」
美咲の宣戦布告から数分後。
リビングには、信じがたい光景が広がっていた。ローテーブルを囲むように、三人が座っているのだ。中央には、ふてぶてしい笑みを浮かべる拓也。その向かいに、怒りを冷静な仮面の下に隠した美咲。そして、拓也の隣で文字通り針の筵に座らされているサナ。
開戦を告げたはずの美咲が、なぜこの状況を受け入れているのか。答えは単純だ。拓也が、あまりにも普通に、冷蔵庫からビールを取り出し、栓を抜き、こう言ったからだ。
「とりあえず、腹ごしらえしながら今後の話をしようじゃないか。な、美咲。お前のハンバーグ、サナちゃんにも食わせてやってくれよ」
そのあまりにも自然な提案に、美咲は一瞬、思考がフリーズしたのだ。「出ていけ」と叫ぶタイミングを完全に逸してしまった。この男は、こちらの常識的なリアクションの、常に斜め上を行く。
「はい、サナちゃん。これが美咲特製の煮込みハンバーグ。冷めちゃったけど、味は絶品だから」
拓也は、来客用の皿にハンバーグを取り分けると、サナの前に置いた。サナは「あ、ありがとうございます…」と小さな声で言い、フォークを握りしめたまま固まっている。
美咲は腕を組み、目の前の茶番を冷ややかに見つめていた。
「拓也。あなた、本気で言ってるの?この状況で、三人で仲良くご飯を食べようって」
「本気も何も、これが一番合理的だろ」
拓也は自分の分のハンバーグを大きな口で頬張りながら、さも当然のように言った。
「お互いの主張はある。でも、まずは腹を満たす。空腹は判断を鈍らせるからな。それに、サナちゃんにだって事情を聞く権利くらいあるだろ?俺という男を巡って、これから戦うかもしれない相手なんだから」
その言葉に、サナがびくりと肩を震わせた。
「あ、あの!私、戦うとかそういうつもりは…!拓也さんから彼女はいないって…」
「ああ、言ってないな。聞かれなかったから」
「えっ」
「だってそうだろ?『彼女はいますか?』って聞かれたら、『いるよ』って正直に答えた。でも、聞かれもしない個人情報をベラベラ喋るのは、誠実じゃないだろ?プライバシーの侵害だ」
あまりの詭弁に、美咲は思わず吹き出しそうになった。サナも、あんぐりと口を開けて拓也を見つめている。どうやら彼女も、この男の異常性の片鱗に気づき始めたようだ。
「つまり、あなたは『聞かれなかったから言わなかった』だけで、私を裏切ってはいないと?」
美咲が尋ねると、拓也は力強く頷いた。
「その通りだ。むしろ、こうして正直にオープンにした俺は、そこらの隠れて浮気する男よりよっぽど誠実だと思わないか?」
「思わないわね。一ミリも」
美咲の即答に、隣のサナが小さく「…私もです」と呟いた。
その瞬間、美咲とサナの目が初めて合った。そこには、同じ種類の「呆れ」と「困惑」、そしてほんの少しの「共感」が浮かんでいた。私たちは今、同じ人種の理解不能な生き物を前にしている。敵とか味方とか、そういう次元の話ではない。これは、まるで未知との遭遇だ。
拓也は、そんな二人の空気の変化など気付きもせず、上機嫌でビールを呷っている。
「まあまあ、そう固くなるなって。美咲、お前だって俺のそういう裏表のない、正直なところが好きだったんだろ?」
「ええ、そうね。その『正直』が、ただの『自己中』の言い換えだって気づくまではね」
皮肉を込めて言うと、拓也は心外だという顔をした。
「おいおい、人聞きの悪い。俺は、自分の欲求に正直なだけだ。美しいものが好きだ。可愛い子も好きだ。そして、お前のこともちゃんと好きだ。この気持ちに嘘はない。全部、本当なんだよ」
まるで、高級な絵画と、道端に咲く花と、お気に入りのマグカップを並べて「全部好きだ」と言っているような口ぶりだった。彼の中では、美咲もサナも、等しく彼の人生を彩る「所有物」の一つでしかないのだ。
「…あのう」
それまで黙っていたサナが、おずおずと口を開いた。
「拓也さん。その…美咲さんのことも好きで、私のことも好きっていうのは…つまり、どっちかを選ぶとかじゃなくて…」
「選ぶ?なんで?」
拓也は、心底不思議そうに首を傾げた。
「両方じゃダメなのか?」
その一言が、この食卓の空気を決定づけた。
修羅場ではない。痴話喧嘩ですらない。
これは、サイコパスによる、常識人二人への公開プレゼンテーションだ。
美咲は、冷めきったハンバーグをフォークで突き刺しながら、静かに思った。
この男を、常識的な方法で打ち負かすのは不可能だ。ならば、こちらもルールを変えるしかない。
ふと、隣のサナに目をやる。彼女は、もはや恐怖を通り越して、何かを諦観したような顔で、小さくため息をついていた。
「…ねえ、サナちゃん」
美咲は、初めて彼女に優しい声で話しかけた。
「このハンバーグ、美味しい?」
「え…あ、はい。すごく…美味しいです」
「そう、よかった。それ、私が作ったの」
にっこりと笑いかけると、サナは少しだけ戸惑いながらも、小さく頷き返した。
テーブルの向かいで、拓也が満足げに頷いている。彼は、自分の理想とする「平和的な話し合い」が実現したとでも思っているのだろう。
だが、彼は気づいていない。
今、このテーブルの下で、二人の女の間に見えない糸が結ばれようとしていることに。
それは、友情でも、同盟でもない。
ただ一つの目的を共有する、「対・斉藤拓也」という名の、奇妙で危険な共犯関係の始まりだった。
(第二話・了)
正直すぎるろくでなし 志乃原七海 @09093495732p
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