正直すぎるろくでなし

志乃原七海

第1話:開戦のベルは突然に



『バレて困る浮気なら、最初からしない』




金曜の夜。時計の針はとっくに22時を回っていた。

リビングのローテーブルには、冷めてしまった煮込みハンバーグと、手付かずのサラダが並んでいる。高橋美咲は、スマートフォンの画面を無意識にスライドさせながら、玄関の方へ何度も耳を澄ませた。


同棲して二年になる彼氏、斉藤拓也の帰りが、ここ最近ずっと遅い。

「仕事が立て込んでる」

彼はそう言うけれど、その声には以前のような疲労の色はなかった。むしろ、妙な高揚感さえ滲んでいる気がして、美咲の胸には小さな棘が刺さったままだった。


その時だ。

カチャリ、と静寂を破って玄関の鍵が開く音がした。

「拓也、おかえり!遅かったじゃ…」

ソファから立ち上がりかけた美咲の言葉は、途中で音を失った。聞こえてきたのは、拓也の声だけではなかったからだ。


「えー、ここ?ひろーい!おしゃれ!」

甘ったるく、弾むような若い女の声。

「だろ?まあ、俺のセンスだからな」

得意げな拓也の声。

ギシ、ギシ、と二つの足音がフローリングの廊下を進んでくる。


心臓が、嫌な音を立てて脈打つ。頭が真っ白になり、足が床に縫い付けられたように動かない。

やがて、リビングのドアがゆっくりと開いた。


そこに立っていたのは、見慣れた拓也と――その腕にぴったりと体を寄せた、見知らぬ女だった。ウェーブのかかった明るい髪に、体のラインがくっきりとわかるワンピース。美咲が持っていないタイプの、あからさまな「女」だった。


「……拓也、どういうこと?」

絞り出した声は、自分でも驚くほどか細く震えていた。


女は美咲の存在に気づくと、驚いたように少しだけ目を見開いた。だが、拓也は違った。彼は悪びれるでもなく、むしろ「やっと来たか」とでも言いたげな不敵な笑みを浮かべて、こう言ったのだ。


「ああ、美咲。おかえり。紹介するよ、こっちはサナちゃん」

「は…?」

「サナちゃん、こっちが俺の彼女の美咲」


紹介?彼女?

理解不能な単語の羅列に、美咲の思考は完全に停止した。怒りよりも先に、巨大なクエスチョンマークが頭の中を埋め尽くす。

サナと呼ばれた女は、困ったように眉を下げて拓也の顔を見上げた。普通の神経ならそうなるだろう。


「あの、拓也さん…彼女さん、いたんですね…」

「何言ってんだよ、いるって言っただろ?」

「え、でも、こんな状況って…」

「だからいいんだって」


拓也は面倒くさそうにサナをなだめると、美咲に向き直った。その目は、一切の罪悪感を映していない。


「美咲。怒ってるのはわかる。でも、ちょっと冷静に聞いてほしい」

「……何よ」

「俺さ、隠し事とか、コソコソすんのって一番嫌いなんだよ。誠実じゃないだろ?」


何を言っているんだ、この男は。

美咲が呆然と見つめる前で、拓也は自らの哲学を朗々と語り始めた。


「浮気ってなんでダメなんだと思う?嘘をついて、相手を裏切るからだ。バレた時にみっともない言い訳をして、関係を壊すからだ。違うか?」

「……」

「でも、俺は違う。嘘もついてないし、隠してもいない。こうして、正々堂々とお前の前に連れてきた」


そして彼は、決定的な一言を放った。


「バレて困るようなこと、俺が最初からすると思うか?」


その瞬間、美咲の中で何かがプツリと切れた。

震えは止まり、冷たい怒りが背筋を駆け上がってくる。目の前にいる男は、私の知っている拓也じゃない。いや、これが彼の本性だったのだ。常識も、倫理も、私との二年間の思い出さえも、自分の歪んだ哲学の前では塵芥に等しいと言い放つ、とんでもない化け物。


面白い。

心の底から、そう思った。


悲しみも、絶望も、一瞬で蒸発していく。代わりに湧き上がってきたのは、燃えるような闘争心だった。

逃げる?泣き叫ぶ?荷物をまとめて出ていく?

そんな凡庸なエンディングを、この男にくれてやるものか。


美咲は、ゆっくりと口角を上げた。それは、自分でも見たことのないような、獰猛な笑みだった。


「なるほどね。よくわかったわ、拓也」

「…わかってくれたか」

「ええ。あなたがただのクズじゃなくて、宣戦布告をしてきた勇者様だってこと」


ポカンとする拓也と、状況が読めずにおろおろするサナちゃんを交互に見る。


「いいわよ。その戦争、買ってあげる」


美咲は、冷めきった煮込みハンバーグを睨みつけ、静かに続けた。


「ルールは一つ。どっちかが泣いて『ごめんなさい』って言うまで、絶対に終わらない。…覚悟はいい?」


リビングに、開戦を告げるゴングが鳴り響いた。

これは、浮気ではない。

プライドと存在価値を賭けた、仁義なき全面戦争の始まりだった。


(第一話・了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る