第7話 終電が来る前に
「じゃあ、お疲れさまでした」
会議室の扉が閉まる。パタンという音と同時に、職場に残っていた空気がふっと軽くなった気がした。時刻は午後8時すぎ。会社に灯る蛍光灯が、無機質に煌めいている。
「……あ、月瀬さん、これ、資料」
声をかけてきたのは、隣の部署の佐野だった。企画課のエース。同期。だけど一度も、ちゃんと話したことはなかった。
「あ、ありがとう。助かる」
気づけば二人きりになっていたオフィス。静けさの中、コピー機の音が遠くから聞こえてきて、それすら妙に大きく感じた。
「今日の会議、うまくまとめてましたね。……俺、ああいうの苦手でさ」
「うまくなんかないよ。必死だったし、正直手、震えてたし」
佐野はふっと笑って、「気づかなかった」と言った。
この人の笑顔、ちゃんと見たのは初めてかもしれない。仕事でしか関わったことのない彼の、人間らしい部分を見た気がした。
「……帰り、ちょっとだけ歩きません?」
予想外の言葉に、目を見張る。でも、なぜか自然に「いいよ」と返していた。
会社を出ると、夜風が優しく頬を撫でた。コンビニの明かり、踏切の音、遠くに見える街の灯。すべてがちょっとだけ、いつもよりきれいに見えた。
「月瀬さんって、なんか、俺に似てると思ってたんですよ」
「え?」
「自分に厳しいし、頑張りすぎるとこあるし。……気づいたら、目で追ってました」
歩幅を合わせてくれる足音が、妙に心地いい。どうしてだろう、今日はまっすぐ家に帰りたくないと思った。
「気づいたらって……なんか、ずるい言い方だね」
「そう? でも本当のこと。……もうちょっと、話していたいなって思っただけなんだけど」
「……うん。私も」
コンビニで買ったあたたかい缶コーヒーを片手に、ベンチに並んで座った。ふと、駅の方に目をやる。あと30分ほどで終電が来る。
「今日、俺……なんか、すごく大事なこと言いたくて」
佐野が、少しだけ顔を伏せる。その声が、夜の空気に溶け込んで、心の奥に届いた。
「恋愛って、難しいなって思ってたんです。仕事の方が楽だって。でも、月瀬さんに会ってから、……また好きになるって、こういうことかって思い出したんです」
心臓が、少しだけ速くなった。
「私も……一人の方が楽だって、ずっと思ってた。でも、今日、あなたと歩いて、話して、なんか……ちょっと泣きそうなぐらい、安心した」
「じゃあさ」
彼がゆっくり顔を上げて、こちらを見る。目が、真剣だった。
「これから、俺と一緒に泣きそうな夜を乗り越えていくっていうの、どう?」
静かに笑ったあと、私はうなずいた。
終電のベルが鳴る少し前に、私たちは恋を始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます