第6話 名前を呼んで

「なあ、俺のこと、なんて呼んでる?」


ある日の放課後、教室に残った彼がそう聞いてきた。

突然の問いに、未来は答えに詰まった。


「え……?」


「いや、なんかずっと“あの……”とか“ねえ”とかって言ってるからさ」

彼は笑っているけど、どこかほんの少し寂しそうだった。


未来は思わずうつむいた。


「……名前で呼ぶの、苦手なの」


「なんで?」


「緊張するから……」



彼──悠翔(ゆうと)とは、夏休み前に偶然一緒に委員をやることになってから、急に距離が縮まった。

最初はただのクラスメイトだったけど、一緒に準備をしたり、残って作業したり、

気がついたら、彼の存在がどんどん大きくなっていた。


未来は気づいていた。

恋していることも、たぶん相手も少し気づいてるってことも。


でも、だからこそ「悠翔くん」と呼ぶのが怖かった。

名前を呼んだ瞬間、想いがこぼれてしまいそうだったから。



次の日、未来は意識しないようにしていたけど、どうしても彼の言葉が頭から離れなかった。


「名前、呼んでほしいなって思ってた」

あの時の声が、なんだか優しすぎて、余計に胸に残っていた。



放課後、委員の仕事を終えた後、悠翔は未来を廊下に誘った。

窓の外では、オレンジ色の夕陽がゆっくりと沈んでいた。


「なあ、また“あの…”って呼ぶつもり?」


「……ちがう」


未来は、深呼吸をひとつしてから、彼の名前をゆっくり口にした。


「……悠翔くん」


それは、小さくて、震えていて、けれど確かだった。


彼は目を見開いて、それからふっと笑った。


「今の、もう一回言って」


「……悠翔くん」


「うん、それ。俺、未来に名前呼ばれるの、たぶんずっと待ってたんだと思う」


未来は顔が熱くなるのを感じながら、そっと彼の目を見る。


「私も……ずっと、呼びたかった。でも、好きって気持ちがばれそうで……」


そのとき、悠翔が一歩近づいて、未来の手をそっと取った。


「俺も、未来のこと、好きだよ。ずっと」


空気がふっと止まったような気がして、次の瞬間、未来の目に涙がにじんだ。


「やっと呼べた……」


「やっと聞けたよ」



その帰り道。

並んで歩く二人の間には、いつもより少しだけ近い距離があった。


「ねえ、悠翔くん」


「ん?」


「……これから、いっぱい呼んでいい?」


彼は嬉しそうに頷いた。


「うん、未来に呼ばれるなら、何回でも聞きたい」





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悠翔side 「その一言を待ってた」




最初に「名前で呼んでよ」って言ったとき、未来は困った顔をしていた。


予想はしてた。

あいつ、照れ屋だから。

でも、本当は……ずっと前から言いたかった。


未来の口から、自分の名前が聞きたかった。

他の誰が呼ぶより、ずっと特別な響きで。



最初に未来を意識したのは、2年の終わり頃。

クラス替えであまり話すこともなかったけど、体育祭のとき、応援団の打ち合わせで偶然隣に座った。


そのときにふいに言った「うん、がんばろ」って言葉と笑顔が、妙に心に残ってた。


新学期になって、また同じクラスになって──

委員を一緒にやることになって、自然と話すようになった。


最初は「なんか話しやすいやつだな」くらいだったのに、

気がついたら、あいつのことを目で追ってる自分がいた。



でも、未来はずっと俺のことを名前で呼ばなかった。

誰にでも気さくに話すあいつが、俺にだけは「ねえ」とか「これ、お願い」って、名前を避けてるのが分かってた。


あれは、意識してるんだろうなって、なんとなく感じてた。

だからこそ、言ってみたんだ。


──「なあ、俺のこと、なんて呼んでる?」


本気の冗談みたいなふりをして。



そのあとも、あいつの態度は少しだけ変わった。

言葉に詰まるとき、目をそらすとき、名前を呼ぼうとして飲み込んでるのが分かった。


きっと、名前を呼ぶのが“告白”みたいなものなんだろう。


分かってたけど、待つことしかできなかった。



夕方、校舎の窓がオレンジに染まる頃。

俺はあいつに声をかけた。


「なあ、また“あの…”って呼ぶつもり?」


少し意地悪だったかもしれない。

でも、あいつはちゃんと立ち止まって、深呼吸して──言ってくれた。


「……悠翔くん」


その一言で、心臓が止まるかと思った。


未来の口から、自分の名前が出た瞬間、

全部が報われた気がした。



「俺、未来に名前呼ばれるの、たぶんずっと待ってたんだと思う」


本音だった。

ずっと、ずっと聞きたかった。


「私も……ずっと、呼びたかった。でも、好きって気持ちがばれそうで……」


ああ、やっぱり、そうだったんだな。


こっちの想いも、言っていいんだと思った。


「俺も、未来のこと、好きだよ。ずっと」



手を繋いで歩く帰り道。

名前を呼ばれるたびに、胸がきゅっとなる。


あいつに呼ばれる自分の名前が、世界で一番優しく響いていた。

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