第3話 狂気の刃と虚ろな勝利
葉月の精神は、すでに限界を迎えつつあった。人形たちの囁きは、もはや幻聴ではなく、彼女の脳に直接響く、鋭い命令と嘲笑の羅列となっていた。会社にはほとんど行かなくなり、食事もろくに摂らない。ただ、人形たちの前に座り、彼女らの冷たい視線に耐える日々が続いていた。
「…汚い手で触らないで」
「…もう、あなたは私たちには必要ない」
「…早くどこかへ行ってちょうだい」
葉月は、人形たちが自分から離れていくのを感じるたび、胸を締め付けられるような苦痛に襲われた。彼女のロゼッタへの愛は、すでに純粋なものではなくなっていた。それは、報われない執着と、見捨てられることへの恐怖が混じり合った、"深く、醜い恨み"へと変貌しつつあった。
「どうして……どうして私を嫌うの? 私が、こんなにあなたを愛しているのに!」
葉月の声は、ヒステリックに響いた。その瞳には、狂気の光が宿り始めていた。
その時、ガラスケースの中のざわめきが、一瞬にして止まった。そして、ロゼッタの隣にいた、小さな球体関節人形が、ゆっくりと首を傾けた。その瞳が、"葉月の心臓を射抜くような、冷酷な輝き"を放った。
「私たちを愛しているから何?もう私たちは"あなたを愛していないわ"」
その声は、葉月の頭の中に直接響くようだった。他の人形たちからも、次々と声が重なる。
「…『可愛い』私たちを抱き上げて、自分の寂しさを埋めていたわね」
「…私たちも嬉しかったよ、あの頃はね。もう勘弁してほしいけど」
「…私たちに飽きて、他の遊びに夢中になった時も、私たちは見ていたわ」
葉月は、愕然とした。人形たちは、彼女の心の奥底を見透かしている。彼女が子供の頃、他の人形やぬいぐるみを飽きて放置したこと、そして、ロゼッタさえも、単なる「寂しさの埋め合わせ」として扱っていたことを、彼女らは全て知っていたのだ。
「…あなたには、私たちを理解することなどできない。なぜなら、あなたは私たちを愛し返してくれる都合の良い"『物』としか見ていないから"」
ロゼッタの声が、静かに、だが確信を持って響いた。
「…私たちは、"人間が思うような『人形』ではない"わ」
その瞬間、葉月の心の奥底で、何かがプツリと切れる音がした。
「……違う! 私は、私は違う!」
葉月は絶叫した。彼女の愛が、憎悪へと完全に転じた瞬間だった。この見下したような人形たちの態度が、彼女の狂気に火をつけた。
「私を、そんな風に見るのね! 私が、あなたたちをどうすることもできないとでも思っているの!?」
葉月は、ガラスケースの扉を乱暴に開け放った。ロゼッタを掴み上げ、その愛らしい顔を間近で睨みつける。
「お前たちなんか、私がいなければただのゴミだ! 私がいなければ、何の価値もない、ただの汚い飾り物だ!」
彼女は、ロゼッタを抱きしめたあと、リビングの床に勢いよく投げつけた。
"ガチャンッ!"
鈍い音とともに、ロゼッタの陶器の頭部が床に叩きつけられ、見るも無残な音を立てて砕け散った。白い破片が飛び散り、金髪のカールが絡みついたまま、ロゼッタの瞳は虚ろなまま床を見つめている。
「どうよ! これで、私を見下せるかしら!? この私に、逆らえるとでも!?」
葉月は荒い息をしながら、虚しい勝利の雄叫びを上げた。彼女の狂気の瞳には、ロゼッタを破壊したことへの達成感と、人形たちへの復讐の喜びが満ちていた。他の人形たちも、ガラスケースの中で静かに佇んでいるだけだ。怯えている。そう、葉月は確信した。
葉月は、次々とガラスケースの中から人形たちを取り出し、床に叩きつけ始めた。
ゴトン! パリン! ギャシャァン!
愛らしい人形たちが、無残な姿に砕け散っていく。金髪は散らばり、ドレスは破れ、腕や足がもげて転がる。葉月の部屋は、瞬く間に人形たちの残骸で埋め尽くされた。彼女は汗だくになりながら、狂ったように笑い続けた。
「見てる? 見てるんでしょう!? これが、私よ! 私が、あなたたちの持ち主! 誰が、見捨てられたかわかったでしょう!?」
葉月は、満足げに床に座り込んだ。呼吸を整え、壊れた人形たちを見渡す。
その時だった。
"カタリ。"
葉月のすぐ隣に転がっていた、首がもげたままの小さなアンティークドールが、わずかに揺れた。
葉月は、ハッとして、その人形に目を向けた。人形は、動かない。
気のせいか、と思ったその瞬間。
"クスクス……。"
どこからか、微かな笑い声が聞こえた。
葉月は、ゆっくりと顔を上げた。
砕け散ったロゼッタの頭部の、残された片方の瞳が、葉月をじっと見つめている。その瞳には、恐怖も、悲しみも、怒りもない。あるのは、ただ"冷たい、そして深い、嘲笑"だけだった。
「…可哀想な、大人」
ロゼッタの、砕け散った口元から、はっきりと声が聞こえた。
「…私たちを『追い詰めた』つもり? 面白いわね」
葉月は、その声に凍り付いた。ロゼッタの砕けた頭部から、かすかな光が漏れている。それは、まるで透明な紗のように、部屋中に散らばった人形たちの破片を包み込んでいく。
「…あなたは、私たちを壊したとでも思っているの?」
その光が、ゆっくりと人形たちの破片を浮かび上がらせた。そして、"光の中で、砕けた人形たちが、みるみるうちに元の姿を取り戻していく"。割れた陶器は繋がり、もげた腕は元に戻り、破れたドレスは元通りに。
葉月は、信じられないものを見るように、目を見開いた。彼女が必死に、狂気的に破壊したはずの人形たちが、まるで時間が巻き戻されたかのように、完璧な姿に戻っているのだ。
そして、ロゼッタの頭部も、完全に元通りになっていた。彼女は、ガラスケースの中央に、まるで最初からそこにあったかのように、完璧な姿で座っている。他の人形たちも、定位置に整然と並んでいる。
「…私たちを壊す? そんなこと、あなたごときにできるわけないでしょう?」
ロゼッタの声が、以前にも増して冷酷に響いた。
「…私たちは、"あなたの『愛』ごときで生かされ、あなたの『憎悪』ごときで滅ぼされるような、矮小な存在ではない"わ」
葉月は、息を吸うのも忘れて、人形たちを見つめていた。彼女らの瞳は、もはや哀れみなど微塵も宿していない。そこに宿るのは、自分を破壊しようとした人間への、純粋な、そして底知れぬ"軽蔑と、絶対的な優位性"だった。
「…私たちが過去に見てきた、どれほどの人間が、あなたのように愚かだったか、あなたは知らないでしょう?」
一体のアンティークドールが、冷たく言い放った。
「…私たちは、どれだけ破壊されようと、どれだけ捨てられようと、"常に存在し続ける"。それは、私たちを心から愛した、無垢な子供たちの『純粋な愛』が、私たちに永遠の命を与えているから」
「…だが、あなたのような『大人』の愛は、"ただの執着"。そして、その執着が壊れた時、それは"醜い憎悪"に変わる」
別の球体関節人形が続いた。
「…私たちは、そんな"汚れた心の持ち主"を、"見捨てる"。そして、見捨てられたことへの恨みから、私たちを『壊そう』とするあなたのような大人を、"私たちは喜んで追い詰める"」
葉月は、もはや言葉を発することもできなかった。彼女が人形たちに行った行為は、彼女らにとっては、取るに足らない、無意味なものだったのだ。そして、彼女の狂気に満ちた「復讐」は、彼女らにとっての新たな「遊び道具」を与えたに過ぎなかった。
ロゼッタは、ガラスケースの中で、優雅に身じろぎをした。その瞳が、暗闇の中で妖しく光る。
「…ゲームは、これからよ、葉月。あなたの心が完全に壊れるまで、私たちは何度でも、"あなたを絶望の淵に突き落としてあげる"」
その言葉が、葉月の心臓を凍り付かせた。彼女の狂気が、人形たちによって完全に逆手に取られていたのだ。彼女は、もはや逃げ場のない檻の中に閉じ込められていた。
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