第2話 軋む心の均衡
人形たちの奇妙な動きは、日を追うごとに顕著になっていった。葉月が部屋を出て戻ってくると、ガラスケースの中の何体かの人形が、明らかに元の位置からずれている。昨日は右を向いていたはずの人形が左を向いている。寝る前にしっかり膝の上に置いていたロゼッタが、朝起きるとガラスケースに戻っている。葉月は、まるで誰かがこっそりと夜中に人形たちを動かしているのではないかと、疑心暗鬼に陥っていった。
だが、もちろん、そんな人間がいるはずもない。この部屋には葉月しか住んでいないのだから。
「お願い、ロゼッタ。なぜ私を見てくれないの? 私は、こんなにあなたを愛しているのに!」
ある晩、葉月はロゼッタを抱きしめ、懇願するように尋ねた。ロゼッタのつるりとした顔は、何の感情も映していない。以前は感じられたはずの、かすかな温もりさえも、今ではただの冷たい陶器の塊でしかなかった。
彼女らが本当に求めているのは、かつての、無邪気な子供だった自分。大人のしがらみに囚われ、心に疲れを抱えた今の葉月では、もう彼女らと真に対話することなどできない。人形たちは、そんな葉月の本質を見透かしているかのようだった。
ある日、葉月は会社から帰ると、ガラスケースの中から、いつもより大きな物音が聞こえることに気づいた。ガチャガチャ、コトン、と小さな何かがぶつかるような音。葉月は恐る恐るガラスケースに近づいた。中を覗くと、人形たちの配置が、まるでいたずらされたかのように乱れている。何体かの人形が倒れ、中にはケースの壁に押し付けられるようにして、首が傾いている人形さえいた。
「どうしたの、みんな…?」
葉月は震える手でガラスケースの扉を開け、倒れた人形たちをそっと起こした。その時、彼女は気づいた。人形たちの瞳が、いつもより、ほんのわずかだが、何かを映しているような気がしたのだ。しかし、それは葉月への愛情や親しみではない。まるで、困惑や、あるいは"軽蔑"にも似た感情。
その夜、葉月はなかなか眠りにつけなかった。天井のシミが、人形たちの顔に見える。カーテンの隙間から差し込む月明かりが、ガラスケースの中の人形たちをぼんやりと浮かび上がらせ、彼女らがひそひそと何かを話し合っているような錯覚に襲われた。
それは、本当に錯覚だったのか。
翌朝、葉月は妙な夢を見た。
夢の中で、彼女は子供の頃の自分に戻っていた。小さな身体でロゼッタを抱きしめ、秘密の物語を囁いている。ロゼッタは、その瞳をキラキラと輝かせ、楽しそうに葉月の話に耳を傾けていた。その時、ロゼッタの口がかすかに動き、小さな声が聞こえた。
「ねえ、葉月。もっとお話して。あなたの可愛いお話が聞きたいな」
夢の中でさえ、ロゼッタの声は、どこか遠く、霞がかかったようだった。そして、夢の中の葉月が、ふと自分の手のひらを見た。そこには、いつの間にか大人になってしまった自分の、皺の刻まれた手が広がっていた。途端に、ロゼッタの瞳から光が消え、顔は冷たく硬直し、その声はひび割れたガラスのように軋んだ。
「…もう、あなたは可愛くない。汚れてしまった」
葉月はハッと目を覚ました。冷や汗が背中を伝う。心臓が激しく脈打っていた。
夢だ。ただの夢だ。そう自分に言い聞かせたが、その言葉は、まるで彼女の魂の奥底に突き刺さるナイフのように、彼女の心をえぐった。
それから、葉月は人形たちの「声」を聞くようになった。
それは、物理的な声ではない。しかし、彼女が人形たちの前に座ると、ガラスケースの中から、ざわめきのようなものが聞こえるのだ。
最初は単なる幻聴だと思った。しかし、そのざわめきは、次第に言葉の形を帯びていく。
「…また来てるわ」
「…何も面白くないのに」
「…つまらないの、あの子」
それは、まるで小さな女の子たちが、ひそひそと陰口を叩き合っているような声だった。彼女を侮蔑し、嘲笑うような、冷たい声。
葉月は、それが自分に向けられた言葉だと理解するまでに、そう時間はかからなかった。彼女が人形たちに話しかけようとすると、ざわめきはピタリと止まる。そして、葉月がガラスケースから目を離すと、再びざわめきが始まるのだ。まるで、葉月がいる間は、彼女らが「人形」であることを演じ、葉月が見ていないところで、本性を現しているかのように。
葉月は、恐怖で身体が震えるのを感じた。人形たちは、彼女の知らないところで、彼女を嘲笑い、拒絶している。彼女が子供の頃、人形たちが生命を宿していると感じたのは、単なる彼女の想像ではなかったのだ。彼女らは本当に生きていた。だが、その生命は、子供の無垢な心にのみ反応する、残酷なものだったのだ。
葉月は、部屋の隅に置かれた、埃を被った古いぬいぐるみを見た。それは、幼い頃、ロゼッタを手に入れる前によく遊んでいた、くたびれたウサギのぬいぐるみだった。子供の頃は、そのぬいぐるみが自分に語りかけてくるように感じたものだ。しかし、ロゼッタを手に入れてからは、次第に興味を失い、いつの間にか部屋の片隅に追いやっていた。
葉月は、ふと、ロゼッタたちのざわめきの中に、別の声が混じっていることに気づいた。
「…あのウサギも、可哀想にね」
「…持ち主が飽きると、私たちはこうして見捨てられるのよ」
「…でも、私たちはまだまし。可愛くない人間は、もっと早くに飽きられるわ」
人形たちの声が、葉月の心臓を凍り付かせた。彼女らは、過去に自分を見捨てた持ち主や、他の見捨てられた人形たちのことを知っている。そして、自分自身も、かつて愛したぬいぐるみを飽きて見捨てた過去があることを突きつけられているようだった。
ロゼッタたちが見る「可愛くない人間」とは、まさに今の葉月自身なのだ。
自分が人形たちに見捨てられる側になるという、"想像すらしなかった恐怖"。
恐怖は、もはや漠然としたものではなかった。それは、明確な意志を持った、冷たい存在として、葉月の心を蝕んでいく。
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