旅の音が聞こえる
第8話:旅の準備と焦燥
さぁ、今からじっくりと準備をすすめていこう。万全の状態で旅に出よう。
そう思っていた矢先のことだった。旅の出発日が決まった。しかも、自分で決めたのではない。決められてしまった。
ケープタウンで暮らしていた部屋の大家さんと立ち話をしていたときのことだ。世間話のひとつとして、これからアフリカを旅したいと思っていることを話した。まだルートも決まっていないこと、だから旅がどのくらいの期間になるのかもわからないこと。それはたしかに言った。だが、それしか言っていない。
後日、大家さんから「あなたの後に入居する人を見つけてきた」と報告があった。相談ではなく、決定事項の通知だった。僕が何も知らないうちに新しい入居者が決まり、その人はすでに今住んでいる部屋を引き払っていた。僕が一言も「退去する」と言っていないうちに。
こうして、部屋を追い出される日が、出発日になった。旅に出るというより、もはや旅に出ざるを得なくなった。
本当なら、自分で決めたかった。地図を睨みながら、もう少し悩んで、迷って、それでも一歩を踏み出す覚悟を、自分の手で選びたかった。それができなかったことに、しっくりこないものが残った。
強制出発のカウントダウンが頭の中で鳴り響き、急に喉の渇きを覚えた。
だが、どこかで現状を正確に把握しようとする冷静な自分がいた。改めて整理してみた。今のところ、準備できているのは免許だけだった。
部屋の中をうろうろと歩き回った末に、彼女に助けを求めることにした。細かい話はしなかった。いや、できなかった。
車で、キャンプをしながらアフリカを旅する。伝えた内容は、大家さんに話した内容と大して変わらない。ただ、新情報を付け加えた。部屋を追い出されるまでに、旅に出ないといけないこと。とりあえず、北に向かおうと思っていること。
「ところで、キャンプしたことあるの?」
彼女の問いに、僕は正直に答えた。
「ふーん」
その声は軽くて、呆れているようにも聞こえた。けれど、僕の無謀を引き受けようとしているようにも感じた。
アウトドアとは無縁だった二人で準備を始めた。キャンプって何がいるんだろ? テント、寝袋など、思いついたものをリストにしていく。彼女はそれを静かに書き取っていく。互いに言葉は少なかったが、必要なことだけは自然と交わされていった。手渡されたメモの文字は、整然としていた。
どこかで「とにかく出てしまえばなんとかなる」と思っていた僕に対して、彼女は少し違った。買い出しに行くたびに「これもあった方がいい」「これは?」「これも」と、まるで旅の全行程を頭の中でシミュレーションしているようだった。
「それ、要る?」と僕が言えば、「あって困るものじゃない」と返る。どこまで買うかで、軽く口論にもなった。
僕は正直、準備にそこまで力を入れなくてもなんとかなると思っていた。けれど、彼女は違った。いや、違うというより、見ていたのかもしれない。僕のいい加減な準備ぶりに、不安を感じていたのだろう。彼女は、「このままひとりで旅に出して大丈夫?」と、心で思っていた。そういう空気が、言葉にはならなくても、会話のすき間ににじんでいた。
一緒に準備をしていくうちに、僕が彼女を旅に誘うのは自然な流れになった。
「もう一緒に行っちゃう?」
彼女は一瞬目を細め、「少し考えさせて」とだけ言った。その返事が本気なのかただの時間稼ぎなのか、僕には判断がつかなかった。
翌日。僕が地図を広げてルートを確認していると、彼女が部屋を訪ねてきた。バッグから、スプーンとフォークが一体になったスポークを二本、無造作に取り出しながら言った。
「これ、あったら便利でしょ」
それが答えだった。
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