第6話:運転免許というハードル
旅に出るなら車しかない。自由に道を選び、テントを張りながら、アフリカを走り抜ける。そんな自分を想像して、わくわくが止まらなかった。
だが、それを実現させるために、越えなければならない現実の壁があった。残念なことに、車で旅に出るには免許が必要だ。
正確にいえば、日本の免許は持っていた。酔っ払ってどこかに落とすまでは。再発行のために日本に一時帰国するには、さすがにケープタウンは遠すぎた。残された選択肢は、現地の運転免許を新たに取得すること。
――旅のためなら、やるしかない。筆記と実技の試験を受けて、一から取ろう。
ただ、その「やるしかない」は、想像以上にやっかいだった。申し込みから受験まで、何カ月も待たないといけないと聞いて、僕は頭を抱えた。体の奥にあった熱がスーッと冷めかけるのがわかった。僕には、そんなのんびり待っている余裕なんてなかった。いや、時間がないというより、『気持ちの猶予』がなかった。行きたいのに、行けない。走り出そうとしているのに、スタートラインにすら立てない。そのもどかしさが、胸の内側をジリジリ焦がしてきた。
今すぐに免許が欲しい。熱があるうちに行動に移さないと、不安に飲み込まれて旅そのものをやめてしまいそうだった。
四カ月後の受験日が書かれた紙を握りしめて、僕は免許センターでいちばん偉い警部の部屋のドアをノックした。
「今すぐに車で旅に出たいので、筆記試験ごときに四カ月も待てません!」
突拍子もない申し出に、当然ながら強く反発されるはずだった。ああ言われたらこう言い返す。もし机を叩かれたら目をそらさず対抗する。様々なパターンを脳内で何度もシミュレーションし、勝てるシナリオをいくつも準備していた。
それなのに――
「あっ、そう」
あれ?
「じゃあ、四日後にテスト受ければ?」
あまりにも軽い口調に、思考が固まった。そんなはずはない。もうちょっと、こう……「ダメに決まってるだろ!」的なやりとりがあって、「そこをなんとか! 警部の力で!」みたいな押し引きが、最低でも何日かは続くと思っていた。そのつもりで、試験の内容すら調べずに来たのに。
いきなり『四日後』が目前に降ってきた。嬉しさよりも先に、焦りがこみ上げた。想像していた戦いが始まらなかったことで、逆に『現実』が急に襲いかかってきた。
そうか、もう逃げられないんだ。
試験まで、あと四日。旅の未来が、突然カウントダウンを始めた。
焦燥感に駆られた僕は、やれることをすべてやった。慌てて猛勉強を始め、眠る前に交通標識の夢を見るほど詰め込んだ。免許センターに「僕だけ試験時間を無制限にして」と電話も入れた。電話口の職員が「えっ?」と二秒固まったのを、僕は今でも忘れない。
四日後。僕は時間無制限の一本勝負に挑み、そして仮免許を手に入れた。旅が一気に近づいてきた気がした。
次は実技試験だ。部屋に入っていくと、警部が「また来たか、こいつ」と明らかに嫌な顔を向けてきた。警部のご想像どおり、僕はまた特例措置を要求した。そのときの警部の顔は、もはや職務を超えたげんなりだったと思う。
後日、すっかり通い慣れた部屋を再び訪ねた。
「警部! これでようやく旅に行けます!」
僕の顔を見るなり、いつものように一瞬だけ嫌そうな顔をした警部だったが、合格の報告をすると、ほんの少し口元がゆるんだように見えた。それが笑顔だったのか、安堵だったのか、単なる疲労だったのかはわからないけれど。
「アフリカの旅を楽しんできなさい」
警部の言葉に、一気に現実味を帯びた旅への期待とちょっとの不安、そして「もう逃げられないんだ」という覚悟が入り混じった。
免許センターを出ると、門の外の木陰に彼女が迎えに来ていた。腕を組んで立つ彼女の顔は、サングラスでよく見えなかった。
けれど、そのまなざしは、僕のことをじっと観察していたような気がした。
何も言わずに歩き出した彼女の背中を見ながら、僕はなぜか、自分のやったことが少し肯定されたような気がした。
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