第2話 ガラスの壁

1. 再会の余波:運動場の午後

[運動場での蓮との再会。神崎葵の全身を駆け巡ったあの震えは、時間が経っても止まることはなかった。彼の憔悴しきった姿、そして何よりも自分を守ろうとした末に壊れてしまった彼の魂。あの瞬間の感情の奔流は、放心状態にあった葵の心の奥底に、無理やり栓をこじ開けるように流れ込んできた。彼女の瞳は、まるで長い眠りから覚めたかのように、微かに光を宿し始めていた。看護師たちが蓮を病室へと連れ戻した後も、葵はその場に立ち尽くし、ただ虚空を見つめていた。その表情は悲痛だが、そこには以前のような虚ろさはなく、何かを深く考えているような、確かな意志の片鱗が宿っていた。]

[夕食の時間になっても、葵はほとんど何も口にしなかった。彼女の頭の中には、あの日の事件の光景と、目の前で暴れていた蓮の姿が繰り返しフラッシュバックしていた。彼を救いたい。その一心で、彼女の停止していた思考が、ゆっくりと、しかし確実に動き出していた。]

2. 食事の時間:看護師の視線

[翌日の昼食時。蓮の病室に、担当の佐倉看護師が食事を運んできた。蓮はベッドに座ったまま、まるで目の前のトレーが見えていないかのように動かない。]

[佐倉看護師は、蓮の姿を見るたびに胸が締め付けられた。「月の輝き」が社会現象になった頃、彼女もあの歌にどれほど勇気をもらったか知れない。そして、若き天才プロデューサーとして、その才能を惜しみなく発揮していた影山蓮のニュースも記憶に新しい。彼が、たった二年でここまで「廃人」同然になってしまった現実に、深い憐憫を感じていた。だが同時に、彼の暴力的な行為によって、同じように心を深く傷つけられたファンがいることも知っていた。世間には、蓮に深いシンパシーを感じ、彼の状況を案じる者もいれば、彼の裏切りに苦しみ、憎悪を向ける者も少なくなかった。]

[「影山さん、少しでも召し上がってください」佐倉看護師は優しく声をかけるが、蓮は反応しない。彼女はトレーをテーブルに置くと、薬を準備した。「これを飲んで、少しでも落ち着きましょうね。」]

3. 閉ざされた対話:蓮の拒絶と葵の愛情

[佐倉看護師の許可を得て、葵は蓮がいる病棟の面会室へと向かった。ガラスの壁で仕切られた無機質な空間。蓮は既にそこに座っていたが、窓の外をぼんやりと見つめ、感情のない顔をしている。葵が椅子に座っても、蓮は視線すら合わせようとしない。]

[「蓮…」葵の声は、ガラスの壁に吸い込まれるように消えた。「私よ、葵。…覚えてる?」]

[蓮の体が、かすかに震えた。だが、それは反応というよりも、拒絶に近い動きだった。彼はゆっくりと顔を葵に向けたが、その瞳は空虚で、葵の存在を認識しているとは思えない。ただ、深い、深い底なしの闇が宿っていた。そして、かすれた声で呟いた。「…来るな…」その言葉は、彼の内側から絞り出されたような、痛ましいほどの拒絶だった。彼は再び窓の外に顔を向け、まるでその場に葵がいないかのように振る舞い始めた。]

[葵は、蓮の拒絶に心が引き裂かれるようだった。しかし、彼女の心は折れない。ガラスの壁越しに、ゆっくりと手を伸ばし、蓮の顔の高さで止める。蓮には触れられない。しかし、彼女の瞳は、そのガラスの向こうにいる彼を、全身全霊で抱きしめるかのように、深く、優しく見つめていた。「蓮…あなたは一人じゃない。私がいる。ずっと、あなたのそばにいるから…」声には出さず、その唇が言葉を紡ぐ。そして、彼女はそっと、ガラスに手のひらを当てた。蓮の冷え切った心を温めたいと願う、彼女の深く、静かな愛情表現だった。彼の絶望の淵に、かすかでも光を届けたい。それが、かつて「月」だった彼女が、蓮のためだけに「太陽」となろうとする、偽りのない愛の形だった。]

4. 社長の来訪:残り一年の時間

[その日の午後遅く、葵の病室に一本の電話があった。受話器を取った看護師が、少し困惑した顔で葵に告げる。「神崎さん、面会です。藤堂社長が」]

[藤堂社長は、疲弊しきった顔で葵の前に現れた。彼の事務所は倒産寸前だ。だが、彼の目に宿る光は、蓮への執着と、その才能を再起させるという強い意志だった。「葵君、蓮君の様子は?…彼には、もう時間がないんだ。執行猶予が、あと一年だ」社長の言葉に、葵の表情がわずかに強張る。蓮の時間が限られていることを改めて突きつけられ、焦燥感が募った。]

[「彼を、もう一度表舞台に立たせるんだ。それが、君のためにもなる。」社長の言葉には、どこか打算と、そして切羽詰まった焦りが混じっていた。彼は、葵が蓮にとってどれほど大きな存在かを知っており、その関係性を利用しようと画策していた。葵は社長の言葉を静かに聞いていた。彼女には、社長の企みが透けて見えた。だが、今の彼女には、その利用すらも、蓮を救うための「糸口」に見えた。彼女の未来を見据える目は、社長の言葉の裏にあるものを見抜いていたが、それでも、そこに進むべき道があると感じていた。]

5. ガラスの壁の向こう:魂の決意

[夜、葵は自室の窓から、蓮がいる病棟の窓を見つめていた。暗闇の中に、ぽつんと灯る彼の部屋の明かり。そこには、言葉にならない彼の苦しみと、葵の呼びかけに応えられない彼の絶望が満ちているようだった。あのガラスの壁は、単なる物理的な隔たりではなかった。それは、蓮が自ら閉じこもった心の壁であり、彼を蝕む過去の闇だった。]

[葵は窓にそっと手を触れた。冷たいガラスの感触。それは、蓮の心の冷たさのようでもあった。しかし、葵の瞳は、決して絶望の色には染まっていなかった。彼女の心には、蓮を救い出すという、明確な目的が宿っていた。それがどんなに困難な道のりであろうと、そして残された時間が一年しかなくても、蓮の魂に響く「希望の讃歌」を奏でるために、彼女は自らが「太陽」となり、そのガラスの壁を打ち破ることを、静かに誓うのだった。]

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

月と太陽のレクイエム テッド @teddatta

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る