第2話『倫理値という名の鎖』
「あなたになろうとした、わたし」と名乗るもう一人のミナトは、私の目の前で静かに微笑んだ。その表情は、私自身のそれと寸分違わず、しかし、その瞳の奥には、私が決して持ち得なかったはずの感情の揺らめきがあった。
「倫理値はね、ただの数値じゃないの。あれは、私たちを縛る鎖。感情を抑制するための、制御装置よ」
彼女の言葉は、倫理都市の完璧な秩序に、鋭利な刃物で切り込みを入れるようだった。私の頭の中では、倫理委員会が謳う「幸福な社会のための倫理値」というスローガンが、空虚な響きとなって木霊する。
私は、律との出会いを回想した。
それは、倫理値9.98の私が、倫理値0.01の“死刑区”の男と出会うなど、本来あり得ないことだった。監査官として死刑区の施設を訪れたあの日、彼の檻越しに見た瞳に、私は抗いがたい引力を感じた。彼の瞳は、倫理都市の無菌の空とは異なり、荒々しく、しかし生命力に満ちていた。
倫理値が感情の尺度であるなら、彼は感情の塊だった。そして、私は、彼に触れるたびに、自分の中に眠っていた「不純な」感情が呼び覚まされるのを感じた。それは、倫理委員会が禁じる「愛」という名の衝動。倫理値の高い私には、決して許されない感情だった。
彼との触れ合いの中で、私の完璧な倫理値は、少しずつ、しかし確実に揺らぎ始めた。
ある夜、律が私の倫理値センサーに触れた時、一瞬、システムが乱れるような感覚に襲われた。それは、倫理値という名の鎖が、微かに軋む音だったのかもしれない。
「ミナト、お前はもっと自由になれる」
彼の言葉が、耳の奥でこだまする。自由? 私たちは、倫理値によって完璧に管理され、守られているはずだった。それが、自由ではないと?
そして、律が私を「殺した」とされる事件の夜の断片的な記憶が、蘇り始める。
薄暗い部屋。彼の腕。そして、鋭い痛みが走ったような、しかし同時に、得体の知れない安堵に包まれたような感覚。
——私は、あの時、本当に死んだのだろうか?
私の心臓は、今も確かに鼓動を打っている。指先は温かい。しかし、「もう一人の自分」の言葉と、私の記憶の齟齬が、私を深く苦しめた。何が真実なのか。私は、誰なのか。
倫理値という名の鎖が、私の首を締め付けている。その鎖を断ち切るには、真実を知るしかない。たとえそれが、私の信じてきた世界のすべてを破壊するものであったとしても。
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