第4話
わたしはイザベラとの約束の時間まで、彼女の著書を読んで過ごした。
何度も開いた頁を、また読み直す。
読み進めるうちに、イザベラの声が蘇ってきた。
はじめての訪問のとき、イザベラから聞くことができたのは、チベットの山での出来事だった。
断崖絶壁の道をどんなふうに進んだか――
もちろんこの件も、マギーの望む冒険譚といったものではなく、どんなふうに岩が裂け、どんな橋が架けられていたかという話だったが、わたしは興味深く聞いた。
イザベラは、すべての出来事を、自分の言葉で語ったのだ。
ほかの探検家たちが使った、いかにも未開の地を表現している大げさな言い回しではなく、エディンバラの町の街路樹の葉を描写するのと同じように、見たまま、感じたままを語った。
彼女の記憶の鮮やかなことといったら。
女性探検家として名を馳せたイザベラ・バードには、類まれな勇気と胆力が備わっていたのだろうが、それ以上に、すばらしい記憶力があると思う。
いつ、どこで、何をし、何を見たのか。
どんな形状の、どんな色の、どんな匂いのするものだったのか。
普通の女に覚えていられることではない。
わたしの知っている女性たちは、もっと感覚的に生きている。
そしてその記憶は、情緒に左右されてしまう。
意外だったのは、イザベラは、訪れた場所を順序立てて語らなかったことだ。
イザベラの著書から、彼女の論理的な思考の仕方を尊敬していたわたしは、彼女が語るときも、訪れた土地の順番に話を聞けるものと思い込んでいた。
ところが、彼女は、カシミールの馬の話をしたと思うと、チベットの渓谷にかかった橋の話になり、その光景を思い浮かべていると、サンドウィッチ諸島にある島の小屋の描写になった。
今、彼女の話に出たところを、著書の中でたぐってみると、イザベラがまったく脈絡なく話をしていたのがはっきりする。
イザベラはいくつになったのだったか。
そう思ったとき、メイドのミミーが、玄関で声をあげた。
頼んでおいた馬車が来たのだろう。
わたしは本を戸棚に隠し、それから階下へ降りていった。
階段を降り、廊下を進むと、母の部屋のドアが開いた。
わたしはハンドバッグの中身を確かめるふうを装って俯き、そのまま行き過ぎようとした。
「ヘレナ」
母の声に、わたしは仕方なく足を止めた。
普段はナイチンゲールの鳴き声のようだと言われる母の声は、いつになく尖っている。
「また行くんですか?」
わたしは頷き、ぎゅっとハンドバッグを握り締めた。
「今日はお客様があるとわかっているでしょう?」
「あっ」
わたしはすっかり失念していた。今日は母がエドワードをお茶に招待していたのだ。
「大事なお客様なんですよ。エドワード様はあなたには勿体ないほどの――」
その先は聞きたくなかった。父と同じ医師であるエドワードは、エディンバラでは申し分ない家柄の出で、医師としても成功をおさめている。
結婚相手として、誰もが羨むような男だった。
だが、わたしにとって、エドワードは心浮き立つ相手ではなかった。
はじめて会ったとき、
「あなたのような人が、毎日、暖炉の前でぼくの帰りを待っていてくれたらしあわせでしょうね」
そう言われたことが、いつまでも心の隅に、棘のように引っかかっている。
エドワードは、わたしを褒めたつもりだったのだろう。
わたしのわたしのおとなしそうな外見を、刺激の感じられない男好きのするタイプではない容貌を、エドワードはそんな表現に変えてくれたにちがいない。
きっと、エドワードは、思いやりのある真面目な男なのだ。
それは、わかる。結婚を考える相手として、すばらしいことだとわかっている。
けれど、暖炉の前で夫の帰りを待つことに、わたしはしあわせを描くことができない。
そんな女を、わたしは身近に何人も知っている。
母もそんな女の一人だった。
母は美しい人だ。だが、母の顔に均一に塗られたおしろいとともに、退屈さも身にまとっている人だ。
そのとき、長い廊下の先にあわただしい足音がして、次いで玄関ドアの硝子越しに、がっしりとした男のシルエットが浮かんだ。
「ほら、いらしたじゃありませんか」
わたしは走り出した。
裏庭へ出られるキッチンへ向かう。
キッチンではコックのジョージがわたしの姿に驚き、目を丸くして叫んだ。
「どうなすったんです?」
「いいから、通してちょうだい」
強引にキッチンを通り抜け、その先にあるランドリー部屋を走り、わたしは屋敷の裏庭へ出た。裏庭は細いフット・パス(森の中の散歩道)が続いている。
枝に服を引っ掛けないよう注意しながら走り続けたわたしは、息が切れそうになったとき、エディンバラの中心街へ続くクラモンド通りへ出た。
そう遠くへ来たわけでもないのに、空がまぶしく感じられた。
この空は、世界中とつながっている。
それがわたしを勇気づけた。
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